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南米にいる日本人移民の話〜コロニアオキナワに行ってきた〜

オラ!!つばさです。
スキミング事件からお金が引き出せなくなったので、これから行きたいとこを我慢して南米に留まるか、現在のゴールをリオのカーニバルに設定して道中はしっかり楽しんむか悩んで結局後者にしました。

また、いろんな旅人やFacebookの友達からリオのカーニバルよりサルバドールのカーニバルの方がおもしろいという情報を聞いたので、サルバドールのカーニバルを目的地に設定しました♪

スキミング事件のブログはコチラ↓
絶体絶命大ピンチ!日本に強制送還!?アドバイス下さい。。。

今回はサンタクルスの郊外にあるコロニアオキナワについて書きます。
沖縄からの移民がボリビアにいたなんて知らなかったのですが、日本人の歴史として絶対見ておきたいと思った場所でした。

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まずはコロニアオキナワへの行き方について。

【行き方】
1.アンティグアという旧バスターミナルに行く

僕らはバスに乗って行きました(1人2ボリビアーノ)
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2.このバス停の近くにモンテーロ行きの乗り合いタクシーがあるので、乗り合いタクシーに乗ります。(1人9ボリビアーノ)
『ヨ キエロ イル コロニアオキナワ』と言えば道行く人が教えてくれました。

この車で移動
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コロニアオキナワまで直で行ける会社もありましたが、お店に今日は休みと言われたので詳細はわかりません。
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3.モンテーロに移動してからはまた乗り合いタクシーに乗ってコロニアオキナワへ(1人9ボリビアーノ)

このおっちゃんがたくさん居るとこで行き先を告げました
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コロニアオキナワまでの道のりは緑が一面広がっていてとても綺麗でした。
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4.コロニアオキナワに到着♪

こんな感じのバス停でした。
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コロニアオキナワまでは2.5時間くらいでした。

コロニアオキナワとは、1954年に沖縄からボリビアに行った入植者が切り開いた村です。
去年2014年の8月15日が入植60周年記念で、式典が行われたようでした。

コロニアオキナワには日本を思い出させる鳥居や

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日本人医師が働いている病院

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日本語で書かれた看板があって、日本から見ると地球の裏側になるボリビアでこんな景色を見ている事に驚かされます。

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今回僕達は2つの目的があって、コロニアオキナワに訪問しました。

1つ目は、コロニアオキナワにある日本語学校に訪問すること。
2つ目は、沖縄からボリビアに移動した人の歴史を知る事。

まず、日本語学校に行ってみると、月曜なのに人が全くいなくて近くに観光振興センターの人に聞くと

『2月1日まで休みだから学校には誰もいません』

とのこと。学校訪問したかったので、少し残念でした。

職員さんとの会話の中で驚いたのは、ここのスタッフさんが日本語を流暢に話していた事。
最初に『私日本語はなせますから日本語でいいですよ』って言われました(笑

ここのコロニーは日本語が話せる方がとても多いようです。
その理由が次に訪れた文化会館と歴史博物館でわかりました。

今回訪問したかったオキナワ第一日ボ学校の写真
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文化センターは学校がある道をまっすぐ進んで行くとありました。

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同じ場所に文化会館と歴史博物館がありました。(日本で言う公民館と市役所みたいな建物)

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まずは文化会館に行きました。
文化会館の前には入植した時の日本人の銅像や

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入植60周年の絵が飾られていました。

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文化会館の人も、もちろん日本語で話をしていました。
聞いた所によると、会長と副会長は日本生まれの日本人(入植第一世)で他の職員は全員ボリビア生まれらしいです。
文化会館と歴史博物館は日本人(2世3世)の手によって運営されているようです。

歴史博物館の中には、沖縄からボリビアへの航路や当時の写真。
60周年式典の際に作られた、コロニアオキナワへの入植の歴史について書かれていました。

沖縄→シンガポール→アフリカ大陸→ブラジルと海路で進みブラジルからボリビアまでは電車で移動したようです。
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赤道で行った『赤道運動会』やブラジルからボリビアに移動する際の電車での苦労が描かれた写真
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60周年記念に作られた歴史表
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60周年記念に作られた歴史表にはコロニアオキナワへの入植者は19回にわけて何度も送られ、第1次入植者は275名。第19次の入植が完了した時には3231人の入植者がボリビアに移ったと書かれていました。この3231人の入植者を第一世と呼ぶみたいです。
また、この歴史博物館には40周年式典の際に後世に一世の方の体験を伝える為に作られた本があって、そこには初めてボリビアに着いたときの感じた事や、入植後現在に至るまでの体験が書き記されていて、その文章を読めたの僕にとってはとても貴重な体験になりました。

【日本からボリビアへの移民について】

ボリビアに到着してからもとても大変だったようです。(大変という言葉で簡単に表せるものでもないですが)
沖縄からブラジルへの航路での移動とボリビアについてからの体験について、入植第一世が後世に残す為に書き残した体験談があったので、その中の内容を抜粋してお伝えします。

沖縄からボリビアに行けるということは、当時とても嬉しい事でした。
沖縄を出発してシンガポールやアフリカなど多くの港に寄港して見られる海外の様子はとても楽しく、『ボリビアに行こう』と言ってくれた夫を選んで(結婚して)良かったと心の底から思いました。
しかし、ボリビアの土地に着いた時にその想いはすっかり消えてしまいました。
ボリビアの入植地に着いたのは確か12/25のクリスマスの日だったと記憶しております。
毎年子どもも私達もとても楽しい日だったのですが、今私たちが居る場所は森の中で、灯りがポツんと1つだけ光っていて真っ暗な空間に包まれていました。大自然の中に放り出され、周りの景色を見てこれから苦しい生活がやってくるのだとはっきりと認識しました。(記憶を頼りに書いているので、原文と違うと思います)

第1次入植者達がボリビアについてからも紆余曲折あって、最初に入植した土地で『うるま病』という伝染病が発生してしまいました。『うるま病』は発生してから3日後に死に、4日生き残れば絶対回復する病気だったようですが、この伝染病で15名の方が亡くなってしまいました。

伝染病の発祥を機に、入植地の変更が行われました。2度の変更の後現在のコロニアオキナワに決定されたようです。

病気になった時に使われていた診察表。戦前どこにいたか?などの項目が入っていた。
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入植地でまず行われた事は森林の伐採でした。農業を行う為にボリビアに入植したのですが、まず必要な事は土地を切り開くことだったようです。
土地を切り開き、種子を植えて農作物を育てるということを休みも取らずただひたすら行っていたようです。
1955年8月からは、ボリビア政府からの食料支給もあったようですが1956年12月30日に食料支給が打ち切られ自らが作った農作物を食べて生きる生活を送っていたようです。

川に住んでいる魚を穫っている様子
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入植後には何度も天災が起こっていて、ようやく畑が軌道に乗ってきて米や野菜がたくさん作れるようになったという段階で、サンタクルス史上初最大の洪水が起こって全ての作物がダメになってしまったり。
近くの大きな川が氾濫してしまい、大切な子どもを失ってしまったりしたようです。

子どもが川の濁流にのまれていなくなってしまった時には、同じコロニアのメンバーが1週間〜1ヶ月一緒に探してくれたようですが、遺体は見つからなかったようです。

猟をする子ども達
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当時使われていた脱穀機
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1人50haの土地を分け与えられ、農業や酪農業、綿を作ったりと入植者の方達は事業を拡げて行きました。
体験談によると、事業拡張の失敗についても書かれていました。

私は、あの大自然を切り開き現在の農場を作った。そして、牛や馬を飼って酪農業もできるようになってきた。
その実績に天狗になってしまった。あの当時メキシコで大規模な工場ができるという情報を聞きつけて、これは綿がたくさん売れるぞ!!と無計画に農業の面積を削って綿を作った。綿を作る事で、現在所有している機材以外で必要なものが出てきて購入した。が、メキシコの大規模工場建設計画が頓挫し、綿を売る事が出来なくなって、借金だけが手元に残ってしまい、その時に所有していた牛580頭を全て手放すことになってしまった。
自分は何でもできると過信して天狗になってしまったことが誤りだった。
だから、これからの世代を担って行く二世三世の者には、このような失敗はしてほしくない。

この経験は多くの起業家にも密接に関わるものだと感じました。

当時の結婚式の様子
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メッセージが書かれた国旗
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現在は第一世代の方々が切り開いた土地を、第二・第三世代の方達が引き継いで、事業の拡大や土地の改良などを行っているようです。

コロニアオキナワの歴史博物館にきて、とても驚いた事がありました。
それは、第一世の方が二世三世の教育に関して本当に真摯に向き合っていた事です。

その内容が父母会の報告書として残っていました。
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この文章の中には、
1年間(船上にいたり森林を切り開いていた期間)子ども達は教育を受けられずにいて、この空白の期間を如何に埋め合わせるか?をしっかりと検討すること。
南米に移住したことは、入植第一世の私たちが犠牲となって、次に世代を担う子弟に高い教養と豊かな知性を身につけさせ、世界の文化人を育成する為だ。
その為に徹底した教育事業の確立に父母会一同尽力していく。
と書かれてありました。

この志が作った教育が、現在ここボリビアのコロニアオキナワで日本語が話せる人がたくさんいる要因なんだな。と実感しました。

当時の学校では日本から持ってきた教科書が使われていたようです。

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子ども達が大好きだった絵本
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また、日本の教育形態にとらわれる事無く、子どもの成長の為の教育を追求して、形態を変更していたことにも驚きました。

中学校という呼び方をなくして、1年生〜8年生という呼び方に変更
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年齢制ではなく、理解度による学年分けに変更していた。

教育に関しても、第一世の方はこのような言葉を残していた。

私たちが教育制度について取り組んだ結果。
現在このコロニアオキナワからは飛行士や弁護士など多くの職業を行っている若者が生まれた。
これからもっと多くの若者が知識をつけて日経○世からのボリビア国大統領が生まれることを心より願っている。

ボリビアへの移住は農業を行う事がきっかけであったが、農業だけでボリビアに関わるのではなく、教育に力を入れて後の世代をしっかりと育てて行く事で、国家を導いて行く人間を産み育てていく。。。この未来への投資が現在のこの村を形成しているんだということを、見て知れたのは僕にとってとても貴重な体験になった。

コロニアオキナワの教育面を見た後にあゆみが

『ここで育った人たちがうらやましいな。こんなに真剣に将来のことを考えられた教育が受けられて』

と言った。

僕も正直同じように思うし、コロニアオキナワには、第一世の人が汗水を流して今の環境を作ってくれたという先人に対する感謝や、自分がなぜ今存在しているのかを知る為のルーツが明らかなのがとても良いなと思いました。

日本でも、これからはもっと子どもに寄り添った教育制度が必要なように感じます。
従来の制度に縛られた組織形態では、柔軟な対応が取れなくなってきているように感じます。
その為には、教師に必要な知識も変わってくると思うし、日本人としてのルーツを明らかにし学んで行く必要があると思います。

もっと自分の国の歴史を知って、自分の立場を認識してから多くの物事を知っていく。
そして、自ら勉強したいと思うように子どもが興味をもつことを提供していき、頑張ろうとしている子を引っ張り上げていくそんな教育が必要なんじゃないか?と僕個人としては思います。

コロニアオキナワでの経験は、僕自身全く知らなかった新たな日本人の歴史を知ると共に、多くの問題定義を与えてくれる体験となりました。

最後にコロニアオキナワ第一世代の方が書いていた、1文を引用して歴史博物館についての締めにしようと思います。

『不可能』という言葉はあっても、『不可能』という事はない

大自然を切り開いた人からの言葉なので、この言葉は凄く印象的で頭に残りました。

歴史博物館の見学を終えた後、文化館に戻って散策してみると、日本の本や新聞が置いてある部屋がありました。

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日本の漫画も置かれていた
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空腹だったので、ご飯屋を探しに街をブラブラ歩いてみる。

途中ご飯屋と間違って入った肉屋
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学校が休みの期間だからか、あまり店が開いてなかった。
もうこの街でご飯を食べるのを諦めて、帰りのバス停に向かっていた時に、たまたまお店を見つけました。

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お店のメニュー
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沖縄そば?のようなものが5ボリビアーノと格安だったので注文♪
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とても美味しくて大満足♪特に一緒に入っていたお肉が絶品でした。
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ここの店員さんの1人が日本語が話せたので、日本語とスペイン語がごちゃ混ぜにした会話をしました。

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このお母さんはおじいちゃんが日本人で、日本に2年間行った事があるから日本語が少し話せると言っていました。
この方は日本人とボリビア人の混血のようです。

帰りのバスに乗る前に『ウチナー』というお店に行ってみました♪
朝は開いてなかったけど14時頃に開店しはじめましたw
お店が開く時間がかなり遅過ぎです。。。

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ウチナーの店員さんは完全な日本人で、日本語がペラペラでした。
『何で日本語が話せるんですか?』と僕が聞くと
店員さんは『学校で日本語を習ったから、この村にいる子どもはほとんど日本語が話せますよ』と

実際に日本語を勉強して話せるようになっている方と話せて良かったーと思った♪

ちなみにウチナーには池で育てている魚の刺身(僕達が行った時は売り切れていた)と日本米が売っていました。

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コロニアオキナワを出る前に日本語が話せるボリビア人の方と日系2世か3世の方とお会いできて良かったと思い。
乗り合いタクシーに乗ってサンタクルスへ。

コロニアオキナワでは、教育のこともいろいろ考えさせられましたが、農業の強さというのを改めて実感しました。
自分で育てて作ったものを食べる生活をする事は、自活をする上で大きな力になり、コツコツ積み上げて行くことで大きな財産になるんだな♪と。
やはり、農業の技術を学ぶ必要性があるなと再認識しました。

サンタクルスに帰ってから少しコロニアオキナワの事を調べたらこんな記事が見つかったので、興味のある方は是非♪
コロニアオキナワについて書かれた記事

サンタクルスに戻って、昨日まで宿泊していたホテルに行くとまたまたハプニングが・・・

『今日は部屋がないよ』

と。。。

僕達はここに泊まるつもりだったので、驚いて

『ドミトリーでもなんでも良いから部屋はない?』

と聞くとお母さんは少し笑って

『部屋を見ておいで』

と。

そして通された部屋がここです。

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完全に1人用の部屋で、荷物を置くとそれだけでパンパンw
僕達はもうどんな部屋でも良かったので、お母さんにOKって言うと少し笑ってました。

この部屋になって嬉しかったのは1人部屋なので1泊50ボリビアーノで良いということ♪
これから出金ができない僕達にとっては、この格安部屋はとても嬉しいことなのです♪

部屋で荷物を拡げたり晩ご飯の準備をしてると、お母さんが

『別の部屋も開いたけどそっちに移る?』と

見せてもらうと、同じ1人部屋だけどベットが広くなってました♪

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僕達が新しい広い部屋に移った後に、別の人が古い狭い部屋に入っていたので、もしかしたらお母さんが話を通してくれたのかも??

ホテルの優しいオナーのお母さんに救われております♪♪
今日もスーパーで買ってきた肉を食べます♪
やっぱり自炊はかなりの節約にるので、クッカー様様な日々が南米で続いておりますw

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本日もご愛読ありがとうございました。
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つばさ&あゆみの新婚旅行日記