渋沢栄一「晴天を衝け」深谷ドラマ館に行ってきた~ゴールデンウィーク第一弾~

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こんにちは。つばさです。
今回の記事はあゆみとゴールデンウィークに埼玉の渋沢栄一スポット巡りと千葉県一周の旅に行ってきましたので、その事について書きたいと思います。

レンタカーを借りていろいろ回ります。

今回は渋沢栄一スポット巡りに関してです。
僕もあゆみも大河ドラマにドはまりしてまして、渋沢栄一の出身が埼玉なので「関東にいるんだから今のうちに行っちゃおう!」ってことで行ってきました。

僕の中で渋沢栄一は「論語と算盤」を書いてて、日本の企業をたくさん作った人!ってイメージだったんですが、どんな人なのか?を知れるのが楽しみです。

大河ドラマで展開を知りたい方は、ネタバレになっちゃうので見ない方がいいかもしれません。(僕達はもう新鮮な気持ちで晴天を衝くを見れなくなりました。)

渋沢栄一 晴天を衝け 深谷大河ドラマ館

まず向かったのは「渋沢栄一 晴天を衝け 深谷大河ドラマ館」です。
4月に作られたばかりの博物館らしく、最初に行く場所として最適だったと後から思いました。

入口には渋沢栄一が一万円札になることを称えた展示物が2つありました。

渋沢栄一がめっちゃ一万円札を札束で持ってます。

トイレの壁にも渋沢栄一が!これが新しい一万円札のようです。

では、ドラマ館の中に入ってみましょう!
入口にはVR渋沢栄一がいて挨拶をしていたので、一緒に写真を撮りました。

渋沢栄一もまさか生まれて180年後くらいにこんな事されてるとは思ってなかっただろうなーw

中に入ると晴天を衝くのポスターが張られてました。
これは写真を撮らねばと思い、あゆみと一緒に撮りました!

晴天を衝けドラマ館の入場料は800円でした!安い!
ちなみにこの後いろんな施設を周りましたが、入場料が必要だったのは、ここだけでした。w
大丈夫か?w

いざ!ドラマ館の中へ

ドラマ館の中に入るとまず目の前にあったのは、栄一が過ごした血洗島の家のセットでした。
2階の窓には幼少期の栄一がいました。

入口に栄一と千代(栄一の奥さん)がいたので、一緒に写真を撮りました。

栄一と千代の横には、大河ドラマの音楽を作った人のストーリーが流れてて、一番驚いたのは、テーマ曲の士気をされている方が渋沢栄一の親族だったことです。

「親戚から渋沢栄一の事を色々聞いてますが・・・」の一文がパワーワード過ぎます。

この時はまだ渋沢栄一の人生を詳しく知らなかったので、オープニング映像の意味を理解できませんでしたが、後から見ると「あーここはこの時の感情を表現してるんだなー」といろいろ思うところが出てきますねー!

では、家の中に入ってみましょう!
中に入るとおじさんとおばさんがいました。

この後見た施設で、このおっちゃんが栄一に書道を教えていたようで、栄一が後年にも続けた書の先生だったようです。
大河ドラマではそんな描写なかったので、実はすごい人だったのかも?と思いました。

部屋の入口にはお父さんがいました。
この人は大河ドラマの通り素晴らしい人だったようで、エピソードで「藍が不作で困っていた一緒に仕事をしていた農家さんに生活ができるだけのお金を渡して例年通り生活できるようにして、翌年からまた頑張れ!」って言ったようです。

ドラマの中でも「お金は必要な時に使う為にあるんだ」みたいなセリフを言ってましたが、その言葉通りの生き方を下人なんだなーと改めて思いました。

お父さんの向かいにはお母さんがいました。
お母さんは慈愛の人って言葉がそのまま似合う方で、ライ病(感染病)患者の背中を共同風呂で流したりしていたようです。

この両親の人助けの心が栄一にも引き継がれたことにより、栄一は慈善事業を600くらいやったんだなーと思うと両親の功績もとても大きかったんだろーな。と思いました。

家の中に入ってみると、渋沢家がいつもご飯を食べていた囲炉裏がありました。
本当のセットの囲炉裏は2つあって、1つは渋沢家用、1つは仕事を手伝う労働者用だったようです。仕事をする家として建築士が家を設計したようです。

栄一のお姉ちゃんがいたので、なれなれしく肩を組んで写真撮りました。
この写真見ると、僕って本当に足短いな・・・泣

家の裏側に行くと藍で染められたタオルと井戸がありました。
こういう空間で昔は生活してたんだなーと感じられる場所で良かったです。

井戸の近くには、栄一の妹と千代の弟がいました。
この2人が並んでいたので、2人は恋仲になるんじゃないか?と邪推しましたが、違ったようです。(たぶん)

栄一が過ごした血洗島の全体像。ドラマのセットはこの空間を完全に再現したようで、土地を買って?借りて?距離まで完璧に再現したようです。

セットの端から端まで歩くと15~20分くらいかかったらしいです。

その先には藍玉力競がありました。
これは、栄一と喜作が藍玉を作る農家さんを切磋琢磨させる為に相撲の番付のような表を作ったもので、それまでの力関係に関係なくその年にできた藍のできで番付が決まったようです。

その結果一番出来が良かった人に下の番付の人がどういう育て方をしてるのか?を確認するようになり藍のできを向上させたようです。

後で言った場所でこの時代はまだ横綱という位がなかったので、一番上が大関になっている事を聞きました。横綱って最近なんだなーと思いました。

大河ドラマで大関になった人に渡していた、「大関の旗」も飾られてました。

その横には晴天を衝くの台本がありました。右から第1話、第2話、第19話なんですが、台本の太さがどんどん薄くなっていたので、説明する部分が少なくなり感覚がマッチしていったのかなー?と想像してみます。

台本が置いてある場所の対面には藍で染めたタオルを干してあるスペースがありました。
あゆみがこのタオルの色が気に入ったようで一緒に写真撮りました。

また、大河ドラマで有名な「これ(このタオル)とこれはまだちゃんと染まってないからもう一回染め直しだ!」ってお父さんが栄一に言ったシーンを再現しました。←全然有名なシーンじゃないw

藍を干しているとこの対面には長七郎と喜作がいました。
2人とも件を持ったポーズをしてたので、僕も牙突っぽいポーズをしました。

喜作の横には尾高惇忠もいました。
深谷市では、栄一よりも惇忠の方が有名のようで、「惇忠あっての栄一」と言われているようです。

今回の旅で一番の収穫は惇忠が凄い人だと知ったことです。
正直大河ドラマでそこまでスポットライトが当たっていなかったので、スルーしてたのですが、惇忠の教育の仕方が良かったから栄一が育ったようです。

この時代一般的な教育スタイルの素読ではなく、多読をするスタイルで教育をしてたり、江戸時代末期は水戸学が攘夷志士の共通の学問だったのですが、藤田東湖の本を熟読して人に教えられるくらい詳しかったりしたようです。

松下村塾を作った吉田松陰先生や龍馬に教育を行っていた武市半平太のように、後の時代を背負う人材を育てた人としてめちゃくちゃ興味が湧いたので、この人の歴史小説を読むことに決めました。

松下村塾に行った時の記事

ドラマ館には渋沢栄一ゆかりの地の一覧もあったので、この後ほぼノープランだった僕らはこれに沿っていろいろ回ってみることにしました。

ドラマ館の出口近くには、下記の広告がありました。
栄一が作った企業の一例で東京電力と太平洋セメントがありました。

太平洋セメントは、海外渡航を行った際にヨーロッパで経済発展の為にセメントが必要だと思った栄一が、輸入ではなく自国内でセメンとを作ろうとして作った会社のようです。(セメントを輸入するのはお金が掛かり過ぎたらしい)

東京電力は、若手で電気に興味を持った人に栄一が投資して作った会社のようです。若手の新しい発想をしっかりと支援する姿も知れる良いエピソードです。

歴史上の人物のスポットに行くと何か1つ記念品を買うことにしてるのですが、ここでは栄一ピンバッジを買いました♪

いつも使っている小銭入れ(赤い六文銭のやつ)に付けたいと思います。この小銭入れなくしたら結構ショックです。。。

こんな感じで、まずは渋沢栄一のドラマ館に行った時のことを書きました。

歴史系の記事を作る時はどうしてもうまくまとめきれなくて、長くなるんですが、渋沢栄一もご多分に漏れず長くなりましたので、次の記事でこの後行ったスポットの紹介を行いたいと思います。

次回に続く!!

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