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アウシュヴィッツ強制収容所に行ってきた〜ナチスドイツが残したポーランドの負の遺産をこの目に〜【後編】

アウシュヴィッツ強制収容所に行った時の記事後編です。つばさです。
今回はアウシュヴィッツ強制収容所・ビルケナウと収容所で見逃していた展示を見に行った時のことを書きます。
現地で知ったことをしっかりと記事にしたいと思います。

前回までのアウシュヴィッツ強制収容所の記事はこちら

アウシュヴィッツ強制収容所に行ってきた〜ナチスドイツが残したポーランドの負の遺産をこの目に〜【行き方・前情報編】

アウシュヴィッツ強制収容所に行ってきた〜ナチスドイツが残したポーランドの負の遺産をこの目に〜【前編】

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アウシュヴィッツ強制収容所でのガイドが終わった後、僕らが向かったのはアウシュヴィッツ強制収容所ビルケナウでした。

前回掲載した写真のこの大きい敷地の施設
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ビルケナウに到着して、すぐに飛び込んできた景色
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ユダヤ人をぎゅうぎゅうに詰めた列車が通っていた線路とその奥に建っている『死の門』。
ここにはSS(ナチスドイツ軍の親衛隊)の中央監視塔があり、入って帰ってくるものがいないことから『死の門』と言われているようです。
この線路の上に花が置かれていたのがとても印象的でした。

赤いバラが一輪置かれていた
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ビルケナウの収容所は母体収容所アウシュビッツⅠ(前編で訪れた収容所)から3キロ離れた地点にあります。
175ヘクタール(東京ドーム約37個分)の広大な敷地に300以上のバラック(ユダヤ人が住んでいた家)や4基の焼却炉とガス室に農家を改造した暫定的なガス室が2棟があります。
ナチスドイツは、ビルケナウに殺戮施設の大部分を立てており多くの虐殺がここで行われていました。
この施設をガイドさんの説明を聞きながら見学しました。

ビルケナウの施設に入るとまず目に入るのは、過去にこの施設に連れてこられたユダヤ人が選別されていた列車のホームでした。

この写真の人が立っているところ
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過去の写真
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この場所に到着したユダヤ人の70~75%はなんの記録もされないままそのままガス室に送られていたようです。
多くのユダヤ人は、ビルケナウに行く時に『新しい働き先に向かうため移住する』と聞かされていたようで、所有しているほとんどの財産を持ってきていました。
そして、その全ての財産を全てここでナチスドイツ軍に奪われ、この施設の中にある倉庫に移していたようです。

過去に使われていた列車が飾られていました
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この線路の先には、ビルケナウの中で最も大きいガス室が2基あります。
このガス室には1度に2000人ほどのユダヤ人が入れられ、毒ガスを撒き、30~40分後に中の屍体を隣の焼却炉で燃やしていたようです。(ガス室の中で毒ガスから運良く逃れた人はその場で銃殺していたと言っていました。)
この施設はドイツ軍が撤退する際に、残虐な行為を行った証拠を隠滅するために爆破したため、残骸が残っている状態です。

破壊されたガス室
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2000人のユダヤ人が収容されていた場所
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殺され、燃やされたユダヤ人の屍体は、その匂いを隠すために森に埋められたようでした。
そして、その森はこのガス室の周りに植えられた部分だそうです。
アウシュヴィッツⅠ同様、無駄なく効率良く人を殺すために作られているこの施設に吐き気がします。
どうしてこのような残虐な行為を人間が人間に対してできてしまうのか・・・理解することができません。

2基のガス室の間にはファシズムの犠牲者への国際追悼碑がありました。

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施設内の線路に置かれていた追悼の花束
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ガス室を見た後に、収容されていたユダヤ人が生活したバラックを見学しに行きました。
この施設もガス室と同様、ドイツ軍が撤退する際に爆破してしまったようで、300以上あったバラックのうち67のバラック(レンガ造り45棟 木造22棟)しか残っていません。

レンガ造りのバラック
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その中で僕たちが見に行ったのは『Block 16』と表記されたバラックでした。

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このバラックでは女性と子供が収容されていたようです。
施設の中には3段ベットがびっちり並んでいて、まるで家畜を飼うスペースのようでした。(もちろん地面は床ではなく土でした)

バラックの中の様子
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子供もいたからか絵が描かれていた
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驚いたのは、この3段ベットの中の1つのベットに5~7人のユダヤ人が一緒に収容されていたことです。
こんな小さなスペースに大の大人が5~7人も一緒に入って寝るなんて・・・日々重労働を強いられているのに、寝るのがこんなところじゃ疲れもとれません。

ベットの様子
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このバラックは湿地帯に作られたため良く泥土になってしまいました。
このような劣悪な衛生条件や現場での水不足から、到着後ガス室に送られなかった人がどのような苦しい生活を送っていたかは容易に想像できます。

バラックのすぐ近くには、収容者用のトイレと洗い場がありました。
ここも開けっぴろげで、プライバシーもなにもない状態でした。
アウシュヴィッツ強制収容所を見学した後に見た『シンドラーのリスト』という映画の中で、この場所にある汚物まみれのトイレの溝に隠れて、処刑をまぬがれた少年がいた描写されていて、そのシーンを見たときは心が痛みました。

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このように、ビルケナウでの収容者の生活環境を実際に使用していた建物や当時の写真を利用して詳しく知ることができました。
最後のガイダンスの中で、ガイドの方が『この収容所には多くのユダヤ人が収容されました。ピーク時には90000人ものユダヤ人がこの場所に収容されていました。しかしナチスが敗戦した後解放されたユダヤ人はたった50000人だけだった。。。多くのユダヤ人がこの場所で死んでしまった。』と涙ぐみながら話しているのがとても印象的でした。

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ビルケナウでガイドは終了し、アウシュヴィッツⅠに移動しました。
そして、無料入場券を取得し、見学できていない展示物が飾られている第六ブロックへ向かいました。
この建物の中には、収容された方がどのような生活を送っていたか、ナチスドイツ軍からどのような行為を受けていたかがわかるような展示物が飾られていました。

部屋に入ってすぐにあったのは、収容された人物の写真でした。
収容所に到着したユダヤ人は、服などあらゆる使用物が取り上げられ、髪を切ってシャワーを浴びせられ消毒した後、囚人番号を与えて登録し、3面から写真を撮っていたようです。(初期の頃のみ、到着するユダヤ人が増えてくると、何も行われずガス室送りに送られたりしていた。)

この写真の中には小さな子供もいました
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収容所に到着した子供の大部分はガス室で死にました。(労働力にならないため)
ガス室に送られず収容された子供は、大人と同じように扱われ、厳しい労働環境にさらされました。
また、子供達の中には医学実験の材料にされた者もいたようです。
収容された子供は政治犯と記入されていたようですが、子供達が政治犯というのはどういう理屈なのか疑問しか残りません。。。

ソ連に解放された際の子供の写真
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アウシュヴィッツ強制収容所においては、囚人番号を収容者に刺青として入れていたようです。
大人も子供も含めた全員にです。
人間が人間にこんなひどいことをして心は痛まないのか?どうしてこんなことができるのか?という疑問が生まれます。

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収容所で収容者に与えられた食事は1日たったこれだけだったようです。

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1食ではありません。1日です。
重労働を課し、食事はこれだけ・・・こんな生活を送っていたので、収容された当時は45~55KGほど体重があった女性は解放時、23~25KGに体重が減っていたようです。
栄養失調どころの話ではありません。体重が1/2になっても働かされていたのかと思うと・・・心が痛みます。

展示されていた女性の写真
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そして、最後に解放された収容者が書いた収容時の状況が描かれた絵が飾られていました。


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労働中
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労働終了→帰宅
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この絵を見て、こいつらは何様なんだ?と思いました。
これで、第六ブロックでの展示が終わりました。

世界を旅することで、ポーランドのクラクフにあるアウシュヴィッツ強制収容所に来ることができ、このような悲惨な現場を見ることができました。
このような非人道的行為が行われていたのが、たった70年前のことだということに驚きます。
なぜ日本は第二次世界対戦時こんなドイツと同盟を組んだのか?とも考えてしまいました。
『負の歴史』『負の世界遺産』と呼ばれるこの場所には、その言葉では表現できない何かがありました。
この何かはおそらく現地に行かないとわからないし、現地に行った人にしか伝わらないと思います。

このような人間を人間と思わない行為を2度と行わないためにも、多くの人に知ってもらいたい場所です。
最後にアウシュヴィッツⅠのガス室に書かれていたメッセージを書いて終わりたいと思います。

You are in the building where the 55 murdered thousands of people.
Please maintain silence here: remember their suffering and show respect for their memory.
(あなた5万5千人が殺害された建物にいます。ここでは静かにしてください。彼らが受けた苦痛を覚えてください。そして、彼らの記憶を尊敬し見学てください。)

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シンドラーのリストで有名なクラクフ・・・みたいですね

ここに来るまで「シンドラーのリスト」って映画を知りませんでした。あゆみです。
ほんで、クラクフを出る前日に思い切ってシンドラーのリストをオンデマンドで借りてみたんですが・・・めちゃめちゃ感動するやないかい!!
これを見てから、シンドラー社とかアウシュビッツとか行けばよかったわい!

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クラクフもついに三日目。
もっと安い宿を見つけて、しかもそこが歩いて5分ぐらいのところだったので思い切って宿替しました。
前の宿もよかったんだけど、同室のイギリス人たち(多分学生)が、毎日朝帰りで明け方結構やかましかったってのもあるしノリがちょっと合わなかったのでね・・・

次のホステルは「Hostel B Movie」オーナーが映画好きそうやなw
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壁には一面の国旗が!
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リビングスペースは、ビデオを模した壁紙。あと、めっちゃ居心地の良いソファー!!
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キッチンも結構綺麗。
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そして、この宿のすごいとこ・・・なんと朝食付きです!!
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これで1人19ズヴォティ(700円ちょっと)って安すぎやろ!!

この安さと、さっきの快適すぎるソファーのおかげで、ここで5泊もしてしまいました。当然シンドラーのリストもこのソファーで視聴会。

近くのパン屋さんで最近ハマってるチョコクロワッサンを購入。
これが・・・美味すぎた!!!
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甘党じゃない私も美味しくいただけました。ってか、最近甘党になりつつある気がします・・・wこっちのチョコクロワッサン美味しすぎるねんもん!!

そしてごってごてのトマトスパゲッティーを食べて、
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再び街散策へ。
今日は、ヴァヴェル大聖堂ってとこに行きました。
めっちゃ蔦に覆われてて・・・
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かつての甲子園球場を彷彿とさせます 笑

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上った先からの眺めはとても綺麗でした。
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大聖堂自体は、ヨーロピア〜んな感じでした。最近見慣れてきて感動がなくなってきてるなー、いかんねぇ・・・
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夜は、昨日買った魚の酢漬けが美味しかったので、違う種類のやつを買ってみました。
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色的には赤いから辛いのかなぁって思ったら・・・全然辛くない、むしろ脂っぽすぎ!!ってことでちょっと失敗でした。

そして、ポーランドに来てから猛烈にハマってるパプリカ。
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生で食べてもしゃっきしゃきでとっても美味しい!!

そして次の日。
シンドラーのリストで有名な、オスカー・シンドラーの工場へ。
今はここは、クラクフの歴史博物館になってて、第二次世界大戦時のクラクフの歴史(主にナチスとユダヤ人)について学べる場所なのです。

途中、「EDO」っていう日本料理屋さんがあったんだけど、
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まさかの「ラーメンバーガー」!!日本人には思いつかない自由な発想(笑)

アウシュビッツの文字が浮き出るトンネルがあったり
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ユダヤ人をアウシュビッツに運んだ列車を妄想させるような、草が生えて使ってない線路がありました・・・
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月曜日に行ったから、入場料は無料!!ラッキー!
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中に入ると、1938年のクラクフの様子からスタートしました。
内装とか展示の仕方がめっちゃ凝ってて、
クラクフの街並みと、ナチスによって支配されているクラクフの街の写真がこの覗き口から見れるようになってたりしました。
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次のブースでは35分のムービーが流れてて、このシンドラー社で勤めてたポーランド人の実際のお話を聞けました。
ポーランド語で英語字幕だったから追ってくのが必死だったんだけど・・・

ナチスが来て、昼ごはんがどんどん質素になっていって、追加で食べるために給料と同等の金額を払わないといけなくなった

とか、

休みなく朝の7時から夜の6時まで働かされた

とか、

ゲシュタポ(警察官)がユダヤ人の社員の名前を全員呼んで、何かと思ったら、次の日会社に行ったら誰もいなくなってた

とか、

まぁ、ひどい話ですよね。こんな非人道的なことがたった70年前に起こってたわけですからね。
しかも、クラクフってほんま初期の段階でナチスに支配され、近くにアウシュビッツ収容所も作られ、だいぶ辛い時期が長かったんだと思います。

戦車の模型とともにポーランドがナチスに支配されていく様子の展示がありました。
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そして・・・ナチスに支配されてからの様子の展示の仕方はすごく印象的でした。
この暖簾の先は。。。
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他にも昔の電車を模した休憩スペースとか
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ユダヤ人が実際に腕に強制的に着けさせられてた「ダビデの星」の腕章。
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実際にユダヤ人が送った手紙とか
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証言とか
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どれを見てももう悲しさしか伝わってきません。
食べるものがなくてやせ細った子どもたちなんて、特に見るに耐えませんでした。

ここシンドラー社で作ってたお鍋の展示の仕方も強烈だった・・・
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そしてこれがまた強烈!!
ユダヤ人たちが実際に過ごしていたところを模した展示。
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ホンマ凄かった!!恐ろしさが伝わってきました。

この日はこの博物館だけでだいぶ疲れてしまい、帰ってきてからはずーっとだらり。
ご飯はトマト鍋を作りました。
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美味〜♪

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さて、クラクフの歴史も学んで、いよいよアウシュビッツ収容所です。
絶対に怖さ・悲しさしかない負の遺跡に行くのはなかなか辛いものがありますが、勉強してきます!!

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イグアス日本人居住区は古き良き日本だった♪

オラ!つばさです!!
現在パラグアイのイグアス日本人居住区にあるペンション園田にいます♪
ペンション園田はキッチンも洗濯スペースもあるからかなり快適です♪

そして何よりもこの場所に住んでいる人たちが優しくて・・・かなりこの場所が好きになっています♪

今日は、イグアス日本人居住区にある銀行や博物館や農協に行ってきたことについて書きます。

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朝こんな感じの綺麗な空を見ながら銀行へ。
地図で見ると結構近いのに、歩いてみるとかなり遠い・・・コロニアオキナワでも思ったけど、地図の1区画がかなり大きくて驚きです!!(コロニアオキナワの記事はコチラ

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15分くらい歩いて銀行に到着♪ここで驚きの出来事と遭遇しました。。。

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クレジットカードでお金が引き出せない事を頑張って銀行のスタッフさんに伝えようと、スペイン語で話していると、

『あっ!?日本語話せるので日本語でいいですよ』

えーーー!!顔は完全に西洋系なのにかなりスムーズに日本語が話せるので、驚きました。。
ATMで一緒に画面を見てくれて教えてくれてかなり助かりました♪
協力してもらったおかげで、僕らがエラー表示だと思っていた画面がそうでない事がわかり、次の画面に進めたので、『ありがとう』と言ってお金を出そうとすると最後にまたよく分からない画面が・・・『これは何だ?』と悩んでいると、さっきのお姉さんがまたやってきて『大丈夫ですか?』と声をかけてくれました。

なんて優しいんだ〜♪♪

最後の画面の意味も教えてもらって、何とか出金完了♪♪
ATMからは20$札しか出てこないんですが、窓口に行くと100$札に替えてくれるので、アルゼンチンの闇両替に向けて100$札に変更してもらいました♪

金融機関で日本語を聞くのははじめてだったので、かなり感動しました♪♪

それから、イグアス日本人居住区にある農協へ!!
『Coop』と書かれた表記に『ここは日本か??』と思わされました。

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日本と違いは営業時間で、イグアス居住区のCopeにはシエスタというお休みがあって、11:30〜14:00はほとんどの施設が休みです。この羨ましい休み制度の時間に僕達はCoopに行ってしまったみたいなので、改めて訪問する事にしました。

農協の通りを見てみると、また日本を感じさせるものが見つかりました!!
そう!!鳥居です。

コロニアオキナワでも見た鳥居
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公園の中に皇太子様が訪問時の記念碑や開拓時の様子が表された絵がありました。

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その後日本人館に行くも、シエスタ中でした。。。

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完全に日本語のお便りが掲示板に貼られていた
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日本人会館の近くに日本語学校があったので、周りを歩いてみました♪
あとで聞いた話ですが、日本語学校はもともと日本人の旅人をアポなしでも快く受け入れてくれていたのですが、ある日に来た日本人の旅人が授業見学中、子どもが起立して国歌を歌っている時に起立もせず・帽子も取らずにずっと座っていたことをきっかけに、簡単に受け入れない方針に変えたようです。
現在は、校長先生に連絡をしてアポイントを取ってからでないと学校に入ることはできません。
授業見学をさせてもらっているのに帽子も取らず、学校側に不快に思われるような行動をするのは本当にやめてほしいと思いました。
僕らはペンション園田のお母さんにお願いして、校長先生にアポイントを取ってから明日訪問する予定です。

日本語学校の倉庫に書かれた絵
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学校内にあった掲示板
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学校の周りを歩いていると、子どもが

『こんにちわ〜』

と声をかけてきました。

僕達も『こんにちわ〜』と挨拶をしてからいろいろ話をしてみました。
話をしたのは、現在日本語学校で6年生のS君で、かなり日本語がペラペラな野球少年でした。

S君に学校の話を聞くと、

日本語学校が始まるのは13:30からで17:00までのようで、午前中はスペイン語の学校に行っているようです。
日本語学校には多くのスペイン人も通っているようで、ほとんどの子どもが日本語を話せるようになっているようです。
S君の両親は日本人のようで、家では日本語で話をしていると言っていました。
S君はずっと野球をやってて、中学生になってからも野球を続けたいと言っていました。

S君と授業が始まるまでの時間に話せた事で、現地の方の事を知るきっかけになって嬉しかったです。

一緒に話してた子ども達と共に
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シエスタの終わりの時間を狙ってまた農協へ。
農協に行って嬉しかったのは、白菜と大根がおいてあったこと。今まで海外で1度も食べた事の無い大根と白菜が食べれる事に感謝です♪

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農協には野菜の他にもいろんな種類のお米が
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もち米ありますの表記までありました
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農協での買い物を終えてから、日本人館で紹介してもらった『イグアス日本「匠」センター』へ

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イグアス日本「匠」センターには多くの資料が飾ってある訳ではないが、多くの資料に実際に写っていた方達がいて、過去の話をたくさん聞かせてくれた。

センターにいた方達。みんなのたまり場のようだった。
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この写真のこの人は私で、この人は〇〇さん家の〇〇さん何て会話が聞けました。
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資料の紹介だけではなく、『若いときからべっぴんさんだ〜』とか『この時は可愛かったのにどうして今は不細工なんだ?』とか写真の中の世界を生きていた方達の会話を聞けるのはとても貴重な体験でした。

僕達に写真の紹介をしてくれたお母さんは15歳の時にパラグアイに来たようで、当時パラグアイに移住するのは嫌だったけど、両親がパラグアイに行きたかいと言っていて、お姉さんが喘息で日本にいたら治らないし死んでしまうと言われたので、移住して来たと言っていました。
その後お姉さんは無事復活して、現在も元気に過ごされているようです。綺麗な空気を吸った事で身体が直ったと言っていました。

その他、花嫁移住というブラジル人と写真交換だけで結婚する事を決めて、結婚する為に移住してた事などを聞きました。

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資料館の奥には折り紙で作られた船や箱など多くの物が飾ってあって、おばあちゃん家でみた折り紙細工を思い出しました。

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結局閉館時間までいて、最後は下記の写真左の飯田さんから多くの話を聞かせてもらいました。
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飯田さんは35歳でパラグアイに来たようで、もともとはパソコンを使ったシステムをしていたのですが、『これからは食べ物を作れた方が良い』と考えて移住したようです。
生まれてすぐに大東亜戦争(第二次世界大戦)が始まったようで、空襲のしたで遊んでいたことやお兄さんが亡くなってしまったことなど多くのことを聞かせて頂きました。

パラグアイに入植してからは、購入した土地の木を切り倒して、燃やして作物が作れる状態に変えていったようです。
今から考えると、あの時に切り倒して燃やした木は木材としてかなりの価値があったな・・・と話されると同時に、入植した当初は住んでいる家の周りに野生のサルやトラがいたが現在いなくなってしまったので、大切な自然を破壊してしまったと仰っていました。
畑を整備する為に森に入った時に2mくらいの大蛇と会った話や、現在有機栽培で納豆用の大豆を作っている事、そして飯田さんが今取り組んでいる人生のテーマのお話など多くの話を聞かせて頂きました。
飯田さん貴重な時間をご一緒させて頂きありがとうございました。

飯田さんのお話を聞かせて頂いて、『自分で考えること』の大切さを改めて感じました。

最後に一緒に写真を撮りました♪
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今日は多くの貴重なお話を知聞けた1日でした♪

夜にはお昼に買った大根と白菜を使って鍋を作りました〜♪
最高に美味しかった♪

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プノンペンのキリングフィールドに行ってきた〜重すぎる歴史をこの目に〜

スオスダイ!つばさです。
今日はプノンペンにあるキリングフィールド(チュンエク大量虐殺センター)に行ってきました。
カンボジアの重すぎる歴史。。。その歴史に触れてきました。

カンボジアにはベトナムとはまた違った歴史があって、その歴史をベースにして今のカンボジア人がいるんだな。と言うことを改めて考えさせられました。

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キリングフィールドへ私たちはトゥクトゥクを使って行きました。
交渉した結果、最初は15$と言っていた価格が9$に。
ツアーで行くと1人5$だったので、この金額なら納得できると決定。
朝10時過ぎに出発しました。

s乗る

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道が混んでいて到着したのは11時くらい。
早速キリングフィールドの中へ入って行きます。

s入り口

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まずは音声ガイダンス付き(日本語)のチケット(1人6$)を購入して入場。
日本語での音声ガイダンスがあることに驚きと感謝です。

sチケット購入

s他言語に対応

ガイダンスを聞きなが中へ進みます。

sイヤホン2

sイヤホン1

入ってすぐに見える慰安塔はガイダンスの1番最後だった。
s慰安塔最初

キリングフィールドの中には下記写真のような掲示板があって、その順路にそって進んで行き、そこでの出来事をガイダンスによって聞くというスタイルでした。

s掲示板

1〜19のガイダンスがあり、実際にキリングフィールドで働いていた方の証言や、トゥルースレン収容所の職員の証言ポルポト政権時代を生き延びた人の証言など、ここでしか聞けない話を直に聞くことができます。

このキリングフィールドに入ってまず驚いたのは、キリングフィールドは総称であり、正確にこの場所は『チュンエク大量虐殺センター』と呼ばれていたことでした。

この時、ベトナムのハノイで出会った女の子が『レボリューションミュージアムって何か凄さが伝わってこない。それは日本でレボリューションって言葉を簡単に使い過ぎているから。』と言っていたことをこの時に思い出しました。
それは、私が『キリングフィールド』と人伝いに聞いていた単語が、私の中でただの観光地としてのイメージを形成していて、『チュンエク大量虐殺センター』と言う凄く生々しい言葉をガイダンスで聞き一気にイメージが転換したからです。

キリングフィールドの慰安塔に保管されていた頭蓋骨
s頭蓋骨

キリングフィールド全体を周り、ここが大量虐殺が起こった場所とガイダンスで聞いてもなお、この全ての頭蓋骨が本当に1人1人が元々人間だったということを理解できませんでした。

ガイダンスの中にはいろんな話が盛り込まれていました。

ポルポト政権発足の経緯、ポルポト政権樹立後市民への影響、チュンエク大量虐殺センターがどのような運営をされていたのか、そして、その中で生き延びた人の経験談。

ガイダンスの中には、ポルポト政権(クメールルージュ)下の考えや、行った残虐な行動の数々が綴られていました。

【ポルポト政権下で兵士に共有していた言葉】

『罪のない人間を誤って殺すのは、敵を誤って殺し損ねるよりましである』

この言葉はポルポトの兵達達の中で言われていた言葉です。
ポルポト政権は1975年から1979年まで3年8ヶ月20日間続いたのですが、その中で、殺された人の数は30万人(諸説あるので、正確な数字ではないかもしれません)。その当時のカンボジアの人口は80万人だったので、人口の1/4がポルポト政権下に虐殺されました。

虐殺されたのは、政府に反対する可能性のある知識人達。

・学校の先生や医師、法律家等の専門家
・外国語が話せた人
・メガネをかけた人
・柔らかな手をした人
・僧侶や尼

など多くの人が虐殺されました。
政権発足当時は、この知識人達に『その能力を活かした仕事があるので、集合して欲しい』と通達を出し、集めて虐殺したようです。
その行動の根底には知識を持った人(罪のない人)を殺すのは、知識を持った人(知識を持った人の中にいるかもしれない敵)を殺しそこねるよりましである。ということです。

大量虐殺された人を埋めていた穴があった場所。周りを覆う木には多くのミサンガが祈祷の意味で結ばれていた
s死体を入れる穴最初

『雑草を取り除くなら根こそぎ』

ポルポト政権下では多くの人がチュンエク大量虐殺センターで虐殺されました。
虐殺される前、ほとんどの人はトゥルースレン収容所という所に収容されていました。
そこでは、収容者に対する拷問が行われ、謂れのない罪の証言をすることを強制されていました。
供述の中にはこのようなものがあったようです。

・求められた仕事を行わなかった
・人民共有の米を盗んだ
・秩序に従わなかった
・アメリカ、ロシアのスパイである

この供述を引き出す為に、数日・数週間・数ヶ月の拷問が行われました。
そして、この供述の中には拷問されている本人が罪を犯すだけではなく、自分の家族や友人、仕事仲間も同じ罪を犯したと書かれていました。
このように行ったのは、政権によって殺された人による復習を未然に防ぐという目的があったからです。
つまり、収容所に連れてこられた人(雑草)を殺すならその周りの人(雑草)も同時に殺してしまわなければならない。ということです。

当時チュンエク大量虐殺センターで虐殺された人たちの服。中には女性のものや子どものものもあった。
s当時の人が着ていた服

s無造作に置かれた服

市民だけではなく、ポルポト政権の兵士達も殺されていた。
政権を少しでも批判した者は首を切って殺され、見せしめにされていた。

166人の首のない遺体が埋められていた場所
s兵士が殺された

【ポルポト政権について】

ポルポト政権下では、都市に住む人のことを新市民。農村部に住む人を旧市民と呼んでいました。この2つの市民の中でポルポト政権が重要視したのは旧市民です。
ポルポト政権は狂信的な共産主義思想を基に樹立していて、『土の上で働く人』が権利を持つ自給自足の社会を目指しており、ポルポト政権下の兵士を旧市民の中から集めました。

この当時のカンボジアはベトナム戦争の影響で、地方にアメリカの空爆が落ちて来る等の影響により、汚職と食料不足により極度の貧困に襲われていました。
その為、アメリカからの空爆を逃れるために市内に非難した人たち(旧市民)も市内に住んでいたのですが、ポルポトが1975年4月17日の時点で市内に居た人は全て新市民とみなされ、強制労働所へ連れて行かれました。

旧市民にポルポト政権が伝えたことは1つ。

『新市民は利己的で悪である。人々の苦しみは都市部の新市民のせいである。そして、新市民は寄生植物戦敗者の捕虜である。』

農村部に住んでいる人のほとんどは、教育を受けていない人で、現代社会に対する知識がなかった為、判断基準もなく、この言葉を信じポルポト政権の兵隊になりました。

こうして、カンボジア人がカンボジア人を殺す国家が誕生しました。

sカンボジア人がカンボジア人を

【トゥルースレン収容所とチュンエク大量虐殺センターについて】

虐殺された多くの人はまずトゥルースレン収容所に連れて行かれました。
そこで、拷問を行った上でチュンエク大量虐殺センターに運ばれたのです。
移動する際に、収容所の看守からは『新しく住む家が見つかったから移動する』と伝えられていたようです。

sトゥルースレン収容所から運ばれる

移動する際は、目隠しに後ろ手を縛られていて、脱走しないように厳重な監視体制を敷いていたようです。

s駐車場

sトラック駐車場

トラックでの輸送は夜に行われました。
なぜなら、周りの住人にこの場所で虐殺を行っていると気づかれないようにする為です。
そして、毎晩『マジックツリー』といわれる木につけたスピーカーからポップな音楽を鳴らし何事もなかったかのように見せていました。その音楽で死に際の最後の断末魔の叫びすらかき消していたのです。
ガイダンスの中にその音楽を再現した物があるのですが、なんとも不気味な音楽でした。

マジックツリーのとこのガイダンスで『菩提樹と言われる釈迦が悟りを開いた木なのですが、そのような幸運なことはここでは起きませんでした。』と言う言葉があり心苦しくなった。
sマジックツリー

到着後1人1人穴の前に呼ばれて、名簿に照らし合わせ確認し虐殺。
到着したその日に殺されず、チュンエク大量虐殺センターの部屋で1夜を過ごす人も居たようです。
その中には自分の処刑実行書類にサインさせられた人もいました。
その時のその人のことを考えると胸が締め付けられます。

s殺害現場

ポルポト政権はお金がなかったので、人を虐殺する為に銃は使いませんでした。理由は、弾が高過ぎたからです。
虐殺する際に使われたのは、鍬や鎌などの農具。本来は鶏を殺す時に使う木の幹などです。
1度切り裂いただけでは死なないので何度も何度切ったり刺したりしていたかと思うと言葉がありません。

実際に使われた道具
s実際に使われた道具

s首を切った木

チュンエク大量虐殺センターには多くの穴が今でも残っています。
そして、この穴全てに人が大量に埋められていたのです。
チュンエク大量虐殺センターでは2万人の人が無惨にも殺されてしまいました。

s墓穴

s墓穴2

チュンエク大量虐殺センターを発見した当時はこのような様子だったようです。
実際に発見した人の言葉に『酷く臭い匂いがしたので、そこを覗いてみるとそこには多くの人間の死体があった』とありました。

s発見当初のキリングフィールド

s当初の写真

目隠しをされたまま殺された人の遺骨
s目隠しをされたまま殺されたト

現在も土の中から多くの骨や歯、衣服が見つかっているようです。

見つかった遺骨
s遺骨はこの中

s遺骨

見つかった歯
s歯

【キリングツリー】

チュンエク大量虐殺センターにはキリングツリーと呼ばれる木があります。
この木がキリングツリーと呼ばれるには理由があります。
その理由は、この人を打ち付けて殺したという事実です。

sキリングツリー

キリングツリーの横にも穴があり、ここには女、子どもが埋められていたようです。

s女子供の死体置き場

ここでころされた女性はほとんどが若い女性だったようです。
カンボジアの女性は元来控えめで、お風呂に入る時や海に入る時も衣服を着用しています。
が、その習慣を知っているはずのポルポト政権下のカンボジア人兵士に殺害される時に、女性は衣服を全て剥ぎ取られ、恥ずかしめを受けた上で虐殺されたようです。
そして、子ども(乳幼児)がいる母親の前で、子ども(乳幼児)の両足を持ち先程のキリングツリーに子どもの頭をぶつけ殺害して穴に落としてから、母親を殺すという残虐な行為まで行っていました。
目の前で子どもを木にぶつけられて殺される母親の気持ちは、はたしてどんなものなのか。。。想像がつきません。

sキリングツリーと穴

キリングツリーを最初に見つけた人は、『なぜこの木の幹に血痕や髪の毛、脳みそが付着しているのか不信に思った。でも、その横にある穴を覗いてみるとその理由が全てわかった』と証言しています。

【慰安塔について】

チュンエク大量虐殺センターには、ここで亡くなった全ての人に祈りを捧げる慰安塔があります。
慰安塔の中には、ここで亡くなった人の頭蓋骨が多数保管されてます。
そして、慰安塔の中に入って近くで見ることが出来ます。
冒頭でも書きましたが、この全ての頭蓋骨が模型ではなく生きていた人間のものだと私は実感することができませんでした。
こんなに多くの人がこんなに無惨に殺害されるなんて、戦後平和になった日本で育った私には考えられないからです。
しかも、この行動はたった40年前の出来事だと言うことに驚きを隠せませんでした。

s慰安塔

s慰安塔の中にある頭蓋骨

慰安塔内にあった日本からの千羽鶴
s千羽鶴

【キリングフィールドに行ってみて】

キリングフィールドに実際行ってみて、私はとても陰鬱な気持ちになりました。
実際に行かないと伝わりづらい、現地で感じる穴からの匂い独特な空気。そして、所々に置かれた虐殺された方の遺骨
全てが私の気持ちを暗く、そして重くさせました。
中でもキリングツリーは壮絶で、まだ産まれたばかりの子どもを木に打ち付けて殺害する様子。それを間近で見せられる母親。泣け叫ぶ母親と子どもの様子、その行動を行う兵士の顔、心情を想像すると・・・

兵士達の証言の中で、『革命の反逆者にされて殺されるから。言われた通りのことをするしかなかった』と言うものがありました。
仮に兵士達も言われたからやるしかなかった。という状況だとすると、母親、子ども、兵士全ての人が悲しい想いをここで体験したのです。
その後、生き残った兵士はどのような人生を送っているのか?この事を考えるだけでも悲痛な気持ちになります。

ポルポトは、1940年代にフランスへ無線電子工学を学びに留学しました。
フランスで共産党に入党し、中国の毛沢東を崇拝しました。
カンボジアに戻ってからは、教師として働き、教師を集めて革命軍を作り、ポルポト政権を作り上げました。
ポルポト政権を作った後、今後反乱する可能性があるからと称して、一緒に革命を行った教師達や自分の家族、兄弟を虐殺しました。
そして、ポルポト政権が指揮を執る民主カンプチア国を作りました。

私はこの経歴を見て、ベトナムのホーチミンのことを思い出しました。
共にフランスの植民地だったカンボジアとベトナム。
その後国を変えた人物(ポルポトとホーチミン)がフランスに留学し共産党に入党。
ポルポトは中国ホーチミンはロシアをベースにした共産党の考え方を自国に持ち帰り革命を行った。

その後、ホーチミンはフランスの植民地支配から独立を果たし、南北に分断され、それでも仲間とともに闘い抜いて、強敵アメリカに勝って、現在のベトナム社会主義共和国を樹立した。

これに対し、ポルポトはプノンペンを占領し、民主カンプチア国を樹立。一緒に革命を行った同志を殺害し、多くの市民を虐殺。カンボジア人がカンボジア人を殺すという内部に敵を作り出してしまった。その後ベトナム軍に攻め込まれタイとの国境までポルポトは敗走し、民主カンプチア国は崩壊。

経歴の上では同じような人生を歩んできたはずなのに、考え方1つで大きく変わった2つの人生と大きな影響を受けた多くの国民。

私は、ポルポトが猜疑心満載の秘密主義人を信じられなかったことに問題があるのではないか?と思いました。
そして、そんな1人の人間が上に立ったことによって、30万人もの命が失われてしまったことに驚くと同時に、このような事を2度と繰り返してはいけないと強く感じました。

最後に、ポルポト政権を生きた人の証言にあった言葉でキリングフィールドでの体験についてまとめたいと思います。
『大量虐殺が行われた国はカンボジアだけではない。ロシアやドイツでも行われている。しかし、カンボジアで大量虐殺が行われたことが現在のカンボジアに大きな影響を与えている。この悲劇2度と起こさないように次の世代にきちんと伝えていくことが、この博物館と体験した我々の使命だ』

回っている途中大雨が。泣いているようだった。
s突然の雨

結局、チュンエク大量虐殺センターに4時間程滞在していて、トゥクトゥクの運ちゃんには申し訳ないことをした。
『4時間も中にいるなんて長過ぎるよ〜』と何度も言われた。

キリングフィールドを出るとこの近くに住む子ども達がいた。少し癒された気持ちになった。

s学校終わりの子ども

s子ども

そして、無事ホテルに送ってもらって運ちゃんと一緒に写真撮影。

s運ちゃんと共に1

s運ちゃんと共に2

帰ってきてから少し宿で休んで、晩ご飯を食べに屋台へ。
1プレート7000リエルのヌードルを食べました。

s晩ご飯

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それから、昨日見つけた1杯0.5$のビールを飲みにバーへ。
私たちがこの旅で行った店で1番オシャレといっても良いぐらいオシャレなお店でした。

sオシャレなバー

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バナナのおつまみが無料で付いてきました。

s無料おつまみ?

ビールを飲んでいると現地民がダーツを初めて、見ていると『勝負しないか?』と声を掛けてきました。

s声を掛けてくる

負けたら腕立て伏せ20回を賭けて勝負開始!

sダーツ対決

結局2回勝負し見事2連勝!
お兄さんは腕立て伏せを40回してました。

s負けて腕立て伏せ

かなり濃い1日が過ぎていきました。
明日はトゥルースレン博物館に行ってきます。

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クチトンネルは総合エンターテイメント施設だった(笑)

シンチャオーあゆみです。
今日は歩き過ぎてつかれたー!!クチトンネルの広さに驚き、そして隅から隅まで歩いたので足が棒のようです。
ビールで癒されます!!w

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朝8時に起きたら、ホスト先の皆さんは誰もいませんでしたw
みんなお仕事に行ってるみたい。お母さんは朝6時から仕事だって言ってるし、こっちの人は朝がホンマ早い・・・

さぁ、今日はクチトンネルへ行きます。
クチトンネルとは、全長200kmの地下トンネルネットワークで、ベトナム戦争中に、南ベトナム解放民族戦線によってゲリラ戦の根拠地として作られ、ここよりカンボジアとの国境付近までトンネルが張り巡らされていた、というものらしいです。
歴史好きのうちらには見ときたい遺跡なのです!!

バイクの喧噪に負けそうになりながら・・・
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途中で笑顔が素敵なお母さんからバインミーを買って・・・
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バスターミナルに到着です!!
クチへは、ベンタイン市場の前のバス乗り場じゃなくて、バスターミナルで乗ります。
バス停の場所は、赤いドロップピンのとこ★

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13番のバスに乗って出発です!!料金は7000ドン。
バスの中でバインミー!

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シーチキンのような味のするパデと、卵、キュウリとネギと醤油の絶妙なバランス!!バインミーはベトナムのどこで食べるかにもよって全然違うけど、どこも美味しい!!
ハノイとか北の方ではバインミーは最後に焼くけど、こっちでは焼かないみたい。

2時間程乗ったら、クチのバスターミナルに到着。てか、2時間も乗って7000ドンってめちゃ安いなw

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ここで、79番のバスに乗り換えます。料金は6000ドン。

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運転手さんと車掌さんに、「クチトンネルに行きたい!!」とめいいっぱいアピール(笑)

途中、おばあちゃんちを思い出す、めっちゃ田舎道を通り過ぎて・・

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すると、1時間弱で、運転手さんに「クチトンネル!」と言われ、降ろされます。クチトンネルの入り口に到着みたいです。
片道3時間弱・・・なかなか長かった・・・。
でもクチトンネルツアーで行くと、最低でも往復80000ドンはかかるから、片道13000ドンは破格の値段ですな♪

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あ!ありました。門らしき物が!!

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で、中に入ると、ん!?テニスコート!??

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他にもレストランとかあったし、ここはクチトンネルオンリーではないのか!?ってかめっちゃ広そうな気配が・・・
てくてく歩いて行くと、2、3分でチケット売り場があったので、買いました。

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何故か70000ドンと20000ドンのチケットを2枚買わされました。

そして、てくてくてくてく・・・ただひたすら歩きます。
10分程歩いたら、でっかいお寺みたいなのが!!

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中にはホーチミンさんと、鶴と亀がおりました!THEベトナムStyle(笑)

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もう、ホーチミンさんゴリ押しですなw
そんなホーチミンさんにチューをしてw
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”有名な塔”と、パンフレットに記されている塔の前で記念撮影。
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ここ実は博物館らしいのだけど、廃れ過ぎててなにも展示してませんでしたw
けど、博物館の周りの彫刻画(?)はとても面白かった!!
ベトナムの歴史が時計回りに記されているのです。

李王朝の時代から・・・
明に勝ったベトナムの人たち。
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ベトナム戦争で虐げたれ・・・
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立ち上がったベトナムの人たち。
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一生懸命戦い、
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最後はベトナムが一つにまとまった!!
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ベトナムの歴史が、分かるようになっているのです。
ハノイでベトナム史を学んだからこそ、この壁画の意味が分かって面白かった!
そのようすはこちら→ハノイで絶対行った方が良いと思う場所
やっぱり、どこかの国に行く時は、その国の歴史背景を知っておくと、観光するにも何倍も面白くなるんだなーって思いました!!

そして!!またここからてくてくと10分程歩いたら、銃とか展示されている重々しい建物が・・・。

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ここで実弾射撃ができるのかな?と思っていたら・・・
「ヘーイ!!」って呼ばれました。

実はここ、今回のメインイベント、クチトンネル探検の入り口だったみたいです!!

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ここで、90000ドン分のチケットをもぎ取られ

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いよいよです!!

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まずは、まっすぐ進んで、「ここで自由にクチ戦士たちと記念撮影していいよ」と言われ、記念撮影w

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そしてまっすぐ進むと、ビデオブースがありました。
ここで、クチの人たちがいかにしてアメリカ軍と戦ったか、という映像を見ました。

いやー、クチの人ほんま凄いです。そもそも、クチトンネルを全長200kmにわたって作ったことも凄いし、自分たちがアメリカ人よりも体が小さいことを活かした作戦がすごい。

実は、このなにもないように見えるところに・・・

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地下に通づる穴があって!!

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穴を小さめに作って、それを見つけたアメリカ兵が穴に入る時にあくせくしている間に殺せるようにしてたりとか。

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実際のトンネル内部は、めっちゃ狭く、ベトナム人が凄い小柄だったことが分かります。

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本当に薄暗くて狭くて怖い・・・。これをアメリカ軍の攻撃のさなかに移動したり、戦ってたのかと思うとホンマに凄いです。
そして、そのトンネルを怖がるつばさがいます。
チキンなつばさ再びwどうぞww

そして、救護施設や、実際にどういう風に戦傷者を運んでいたのか模型もありました。
リアル過ぎて、「うぁ!!」ってなりましたがw

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あと、クチの人たちが仕掛けたトラップもありました。

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これマジで刺さったら痛そう・・・これに刺さるぐらいなら撃たれた方がマシかもって感じですよね・・・。

最後に、クチの人たちが食べていた、タピオカを実際に体験しました。
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うん、なんか蒸したいもみたいな感じで、めっちゃ腹にたまってすぐにエネルギーに変わりそうなことだけは分かりました。だから、アメリカに勝ったんだねw

これにてツアーは終了。

たぶん旅行会社のクチトンネルツアーで来てたら、ここで終わりなんだろうけど、自力で来たうちらは、このアミューズメントパークを最大限に楽しもうと、他のゾーンも見に行くとこにしましたw

京都みたいなとても綺麗な竹林の道をとおりぬけ・・・

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まず、当時のクチ村の様子を表したゾーン。

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基本的に家は半地下になってて、どの家もクチトンネルに通じるようになってました。すげぇな。

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そして、このゾーンを過ぎると、池みたいなのがあってその周りには、ハノイにある一柱寺の10分の9のモニュメント(もうちょっと頑張って等身大にしたら良かったのにw)とか

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うちらが行った、フエに王宮のミニチュア!

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チケットとをもぎ取られた入り口もこんなに小さい!

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等身大だったらできないことをやってみた★w

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柱の模様とか、内部の様子とか、はたまた池の汚さとかもめっちゃリアルに再現されてますw

最後にはホーチミンにあるホーチミン博物館のミニチュア。
中もしっかりホーチミンさんの展示がされててびっくりしましたw

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で、ここまで来て、つばさがあることに気づきます。
「これ、ベトナムの形してない?この池が海でさ」
写真 (14)

確かに!!

ていうことは、このホーチミン博物館の南にある川のようなものは、メコンデルタ!?たしかに、3つに川が別れていました!!

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すげー、よく考えられてるなー!!と二人で感動しておりました。が、なんせ廃れているアミューズメントパーク、うちら以外にここを歩いているのはだーれもいませんでした・・。

そして、歩いて行くと、実弾射撃ができるゾーンに突入。

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これが値段表です。
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一発100円からとだいぶリーズナブル。
つばさが「安いの一発やりたい!!」って言ってたんだけど、1発だけじゃ打てなくて、最低10発からってことだったので、もういいか!って帰りました。

帰り、79番のバスを待つもなかなか来ず、そして雨もぱらついてきたので焦っていたら、謎の片足サンダルのおっちゃん登場。
「どこにいきたいんだ」みたいな会話から、「クチバスターミナル」と言ったら、おっちゃん、必死で丁寧に教えてくれました。
最初は変な人来たー!!って焦ってましたが、最終的には人懐っこいめっちゃいいおっちゃんでした。

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バスに乗ってから、「あのおっちゃん、クチの戦士だったのかもしれないね」っていう話になりました。年齢的にも、ちょっと英語分かる(アメリカ軍の教育)感じからしても、もしかしたらって。
いうても、ベトナム戦争はまだ40年弱前のできごと。その辺で物を売ってるおっちゃん、おばちゃんも苦労したんだろうな、って思うとなんだかやるせない、というか変な気持ちになります。自分が平和ぼけしてるだけに・・・。

また3時間弱かけて帰って来たら、もう晩ご飯の時間でした。

今日もカウチサーフィンでお世話になっているホストのおかあさんにごちそうになっちゃいました。

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今日は魚料理がメインで、私の好きな辛いソースがついてたので、「I like spicy!!」って言ったら、めっちゃついでくれました。
おとうさん、私の辛いの食べっぷりにビックリしてましたが(笑)

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ほんと、ベトナム料理はおいしい!!日本食より好きかも←w
今日もご飯たらふく食べちゃいました。

そして夜は、10000ドンのサイゴンビール大瓶をたらふく飲み、

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家に帰っても、ベトナムのとんがりコーンとビールを飲みながら夜はふけていくのでした・・・。

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ホーチミンにある戦争証跡博物館へ行ってきた。

シンチャオ!!つばさです!!
2日間の夜行バスを乗り越えて、ホーチミンに到着♪

シンカフェのバスは空いている時期なら1番後ろがかなり良いことが判明しました!
5席が連なっている席があって、空いてたら全部仕えちゃいます♪

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運が良ければこんな感じで横向きに寝れちゃいます♪
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ベトナム縦断最後の都市に到着です♪

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ホーチミンではカウチサーフィンを使おう♪と僕達の中で決めてて、2人のホストが泊めてくれることになりました♪
今日は1人目サムエルの家へ向かいます!

サムエルに教えてもらったローカルバスのバス停へ移動♪

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88番のバス停へ向かいます♪英語で数字を言って伝わらない時は、電卓に打つとスムーズに伝わることがわかりました♪
ちなみに、バスチケットはこんな感じ!

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そして、43番のバスに乗り換え!

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バスの切符売りに『ミンマンホテル』に行きたいって言ったんですが・・・伝わらずw

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近くにいたお姉さんが『連れてってあげるよ!!』と男前発言♪

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優しいお姉さんのおかげで、サムエルとの合流場所んび到着しました♪
サムエルの家はめっちゃでかい!!そして、部屋がとても綺麗です♪

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昨日の夜から何も食べてなくて、空腹の僕らをサムエルがローカルフードマーケットへ♪

激ウマの麺
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アイスコーヒー
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ここで、サムエルの家に昨日から泊まっているセルと合流♪

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セルはロシア人で大のバスケット好き♪ソチオリンピックの時にトンネルを作るエンジニアをしてて、ソチに行く為のトンネルは僕が作ったと言ってました!
現在は退職して、アジアを中心にグルグル旅をしているようです♪
セルの旅スタイルはヒッチハイク&カウチサーフィンです♪凄いなーと思いつつ、僕らもヒッチハイク試してみようか検討中ですw

今日は、セルもホーチミン市内に行くということなので3人で観光してきました♪
まず、さっきのバスでホーチミン市内へ移動♪
ホーチミンはバイクの数が凄いです。

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いろんなツアー会社に聞いたんですが、クチトンネルツアー(ベトナム戦争時にベトナム軍が使っていたトンネル)は安くて9万ドンくらい掛かって、しかも入場料(3$)は自己負担。

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なので、僕らはローカルバスで行くことを考えてます♪
サムエルに『クチトンネル』に行くローカルバスのバス停を聞いていたので移動!

セルと英語で話しながら移動・・・英語難しい
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で、料金を聞いた所このローカルバスは1人7000ドンで行けちゃうみたいです♪
かなりお得だったので、ローカルバスで行くことを決定!!
天気予報を見て天気がいい日に行ってきます♪

それから、近くにあった教会へ♪観光スタートです!

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セルフィーが大活躍です♪
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キリストが磔られているとこの前に線香・・・これが和洋折衷でしょうかw
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教会を見たあと公園を通って、戦争証跡博物館へ

公園で学生のような子達がなんかやってたw
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カメラを構えるとみんな笑顔でピース♪前に出てきた男の子が邪魔してますw
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戦争証跡博物館に着いたのですが、お昼休みみたいで入れず・・・近くの観光スポットへ行くことにしました!

統一会堂の庭にあった戦車を見てセルが『あれはロシア製の戦車だ!』って言ってた。
日本人が零戦を見て『あっ!?』って思うようにロシア人もそう感じるんだ!と思った。

統一会堂にあった戦車
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それから、聖マリア教会へ移動!

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セルに2人の写真を撮ってもらいました♪
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セルとの3ショット♪
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マリア様の写真
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僕が写真撮影をしている間にセルとあゆみが2人で遠くへ

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かなり置いてかれましたw
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それから、セルが『郵便局に行きたい』と言っていたので、隣の中央郵便局へ
僕らは郵便局に入る前に、地元の学生のアンケートに捕まりましたw

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英語がわからない僕達にいろいろ別の言い方で教えてくれました♪
そして、書き終わった後にセルフィーw

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アンケートを通して、地元の学生と交流するのも新鮮で楽しかった♪
それから郵便局の中へ♪めっちゃ綺麗!!そして、ホーチミンさんが愛されていることがわかりました!

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郵便局の隣にあるモニュメントを発見!

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すぐに同じポーズw

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こうやって遊んでると戦争証跡博物館に入れる時間になってきたので、移動♪

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チケットは1人1.5万ドンでした!!安い!!

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博物館の周りには当時使われていた、アメリカ産の飛行機や戦車が

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博物館に入る前にセルフィーw

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博物館に入るまではかなりのハイテンションだったんですが、中で見たベトナム戦争当時の写真や、枯れ葉剤の影響を見ると、凄く切ない気持ちになりました。

ベトナムに着いてから僕らがベトナム戦争に関する博物館に来るのは、今回が3度目です。
1度目はハノイで、2度目はフエで。ちなみにその時のブログはコチラ↓
ベトナム歴史博物館はベトナム史の宝箱だった
南北ベトナムの境界線に行ってきた

ある程度歴史の流れも、その当時の写真も見てきてて。
その当時に、市民が暮らしていたトンネルにも行ってきて。
ベトナム戦争についてわかった気でいたけど、実際の被害を考えた時に、この博物館程、戦争の被害が生々しく伝わる写真を多く掲載している場所はなかったように思う。

この戦争が後世にどれだけの精神的・肉体的影響を与えてきたのか?が明確に感じられた。

まずは、ベトナム戦争時の様子についての写真。

アメリカ兵が急に家にやってきて怯えるベトナム人の写真
アメリカ兵がやってきて恐れる親子

爆撃で殺したベトナム人を持つアメリカ兵士
死体を持つアメリカ兵

当時使っていた銃と、その銃を使ってベトナム軍の兵士を殺している様子
銃とアメリカ兵乱暴

前日まで夫婦で一緒に屋台をやっていたのに、進撃してきたアメリカ兵に妻を殺された男性(妻は男性の前で横たわっている)
s妻を殺された

アメリカ兵士から逃げるベトナムの子ども達
逃げる子ども

アメリカ撤退後、ベトナム人同士が争い合う様子を捉えた写真
sベトナム対ベトナム

最後にこの写真が僕にとってとても心に残った。。。

戦争を知ってしまった子ども大人になると忘れてる

この写真の下にはこのように書かれていた。

『僕達は子どもの時に、子どもの立場で戦争の話をした』
『子どもの立場で戦争を理解した』
『子どもの立場で戦争について考えた』
『でも、大人になった時、子どもの時の記憶をなくしてしまった』

ベトナム戦争が行われている時代の日本人の贈り物も飾ってあった。

アメリカはベトナムから手を引けと書かれたゼッケン
ゼッケン

金子徳好さんが8年間つけ続けたようで、『ゼッケン8年』という本になっている。
sゼッケン8年

アメリカが手強いベトナム軍に対して原子力爆弾の投入を検討していた時、投下に反対し阻止しようとする日本人のポスター
アメリカの原子力泊める

ベトナム人民は必ず勝つ!と書かれたポスター
ベトナム勝利

自衛隊に沖縄をアメリカから取り戻せ!と言っている写真
沖縄

日本の新聞会社の『赤旗新聞』
赤旗新聞

この当時の日本は、東京裁判史観によって変更された教育を受けた人より、大東亜戦争時代アメリカに勝とうとしていた人が多い時代で、発言の勇ましさに、僕は日本の力強さを感じた。

そして、米軍の枯れ葉剤散布による被害についての写真。
僕は子どもの頃、日本でベトちゃん・ドクちゃんのニュースを見たことがあって衝撃を覚えたのを今でも覚えている。

産まれた当初のベトちゃん・ドクちゃんの写真
sベトチャンドクちゃん

米軍の枯れ葉剤散布の写真
sIMGP3961

枯れ葉剤の影響により人体に変化が生じた子
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sIMGP3969

sIMGP3963

12歳の時に枯れ葉剤を被ってしまった女性の子どもが奇形児に。
s枯れ葉剤浴びる12歳

何年経っても受け継がれる枯れ葉剤の影響
s枯れ葉剤浴びた母親の子

枯れ葉剤の影響により草木がなくなってしまった場所に立つ女性
s枯れ葉剤

枯れ葉剤によって、お腹の中でくっついたまま亡くなった子ども達
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枯れ葉剤の影響で腕を失った子が足で絵を描く様子
sIMGP3975

枯れ葉剤の影響はベトナム人のみでなく、現地で散布したアメリカ人兵士や現地で戦っていた韓国人など多くの人間に拡がっていた。

戦場時から戻ったあと20種類の薬を服用しなければならなかった兵士
sアメリカ兵薬

この兵士の子どもにはベトナムで起きた枯れ葉剤が子どもに与える症状を発祥した。

腕を失った白人の子ども
s枯れ葉剤影響白人

枯れ葉剤の影響が出た様々な国の人
s韓国・アメリカ生涯

枯れ葉剤を使うことで、人体にどのような影響が出るかわかっていた。(実際アメリカの会社は影響が出ることを認め、アメリカ人には補償を与えている)
それなのに、兵器として実験感覚で使ってしまったことが大きな罪だと思う。
戦争は、確か国際法とかで市民への攻撃は禁止にされていたはずなのに、多くの市民を殺す兵器を使っている。
兵器を使って、多くの市民を虐殺し、生活を打ち壊し、多くの悲しみを生み出し、後世に影響を与える損害を引き起こした。

僕はこの博物館に来て、2つのことを考えた。

1つ目は、障害を持つ人へ『可哀想』という感情を持つことに関して。
枯れ葉剤によって障害を持って産まれた子どもの写真や大人の写真をたくさん見た。
1枚1枚に対して、何度も何度も『可哀想だ』という感情が心の中で産まれた。
でも、この障害を持った人を『可哀想』と思うことは、その人がこれまで生きてきた人生やこれからの人生に、哀れみの目を向け否定してしまっているのでは?と考えるようになった。
どんな状態からでも、人生を楽しむ方法はあって、恐らく楽しむ為に越えなければならないハードルが少し多いだけだと考えようと思った。

だから、可哀想だから支援したり、助けるのではなく、ハードルを乗り越えるのに自分の持っている物が役立てられるから手伝う。そんな気持ちで自分自身生きていきたいと思った。

2つ目は戦争に関して。
今まで戦争で亡くなった人写真などを見て、悲しい気持ちになったり、できることなら助けてやりたいと思っていたけど、この博物館にきて自分の考えはそうではないことに気がついた。
僕は戦争で戦って亡くなった人に関しては、あまり悲しい気持ちにはならない。
戦争を行うということは、そういうことで。
殺されるけど殺している。
拷問されるけど拷問している。
お互いの理念に沿ってしっかり戦っているから、その戦争でどうなってもそれはその人の選択によって産まれた結果なんだと思う。
でも、戦争に巻き込まれた一般市民、戦争の影響が将来まで拡がるような兵器の仕様。この2点に関してはどうしても許せないと思う。
街に対する空爆。村への奇襲による虐殺。勘違いによって射殺される人々。人体の構造にまで影響を与える兵器の使用。
全ての行動が『非人道的』行動だと思う。

戦っているはいえ、絶対に一般の人のは影響を与えないようにする配慮を持つべきだと思う。
過去の経験を変えることはできないから、これから最悪のケース(戦争が起こる)を考えた上で、一般人を巻き込まない方法や、人体の構造にまで影響を与える兵器(枯れ葉剤・原子力爆弾など)を使用するルールをしっかりと定めるべきだと思う。

即興の案としては、

・攻撃してはいけない場所を戦線布告の際に作る
・インターネットの機能を使って戦時中は市民がどこにいるかわかるようにする
・上記のスペースや情報を使った戦略の組み立ては禁止する

など、一定のルールを盛り込んだ新たな戦時法を生み出すべきだと思う。

最後にいろんな考えを産んだり、過去の経験をしっかり振り返られる現状を作ってくれた人に感謝したいと思う。
今まではあまり気づかなかったけど、写真を撮るということは、現場に行って従軍カメラマンとして危険を顧みず、撮影を行った多くの人たちがいたわけだ。

写真を提供したカメラマンの写真
s写真家

今までは誰が撮影したのかわからないままだったので、気づかなかったがこの写真の裏側には、多くの人が命を掛けて仕事をしていた。
中には亡くなってしまった人もいるだろうし、この体験がトラウマになってしまうこともあるだろうと思う。
この人たちの努力が、現在を生きる僕達が過去を振り返り、過去の体験をこの目に焼き付ける機会を与えてくれていることに感謝です。

ホーチミン1日目は本当に濃い1日になりました。

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ベトナム戦争の軍事境界線(DMZ)を体験してきた

シンチャオ、あゆみです。
今日は、ベトナム戦争についてお勉強モードです。

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あさ、本当は朝ご飯は7時からなのに、うちらのためにわざわざ朝ご飯を作ってくれたオーナーさん。
ホンマ良いホテルです。

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美味しいベトナムコーヒーを堪能して、7時前にお迎えがきました★

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2時間程バスに乗ると、ドンハの街へ到着。
ここで、ベトナム人のガイドさんが乗り込んで、ベトナム戦争についていろいろ説明してくれました。

ベトナム戦争ってざっくり言うと、アメリカ、フランス率いる南ベトナムと、旧ソ連、中国率いる北ベトナムが戦った、冷戦の代理戦争ともいわれるもの。
で、うちらが今回参加したツアーっていうのが、ベトナム戦争が始まる前、1954年のジュネーブ協定で決まった、第一次インドシナ戦争の停戦ライン付近をめぐる、というものなのです。ベトナム戦争は、この軍事境界線をはさんでとても激しく行われました。

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実はこのガイドさん、おじいさんは南ベトナム軍の兵士、おばあさんは北ベトナムの人、というとても複雑な背景の人。
この人が、「戦争はよくない。」と言うと、説得力があります。

午前中は、軍事境界線より南側の国道9号線沿いを巡ります。この国道、そのまま進み続けたらラオスに抜けます。

バスが走ること30分、最初のみどころ、「ロックパイル」に到着です。

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この岩は、高さ230mほどで、アメリカ軍の補給基地に使われていました。空から、フィリピンから運んできた物資をとどけていたとか。

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たしかに、周りは低く、見晴らしはいいです。
トップをよく見ると、旗がたなびいてます。(今日は風向きの関係上旗が良く見えないw)
昔は、アメリカの国旗だったけど、今はベトナムの国旗がたなびいてるようです。

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道の途中、この辺にすんでるローカルの人々の家を見学しました。

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ほんの40年前はここもこんなのどかじゃなかったんだろうなぁ・・・

そして、また15分程進むと、ダクロン橋に到着です。
これは北ベトナム軍が、南ベトナムに架けた、軍事補給路。「ホーチミンルート」と呼ばれてます。

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ホーチミンルートのモニュメント。

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またここからラオス側に進むこと15分。ついに、ケサン基地に到着です。
ケサン基地とは、米軍が、さっきのホーチミンルートを破壊する目的のために作った基地です。脅威に思った北ベトナム軍がケサン基地破壊のために頑張って周りを包囲し、孤立したケサン基地は空路での補給のみを余儀無くされますが、せこいアメリカは空から北ベトナム軍を攻撃することで盛り返します。だけど、結局は維持にコストがかかりすぎるから撤退したという、なんともまぁ無駄な基地なのです(笑)

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山の上にあって、周りはほんとに見晴らしがいいです。

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エアフォースが置いてました。

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めっちゃ大きい!

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昔使われていた戦車には、皮肉にも花が咲いていました。

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ラピュタやん(笑)

塹壕が迷路みたいでした。

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いや、ホンマようこんなん作りますな…

塹壕の中からせルフィー(笑)

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塹壕の中は真っ暗で怖かったです。
あと、なんか兵士たちの死気みたいなものが残ってそうで、気持ちが重くなりました…

ここで、いらんって言うてるのに、やたらコインを売ってくるおじちゃんがいました。しかもそのコイン、大日本帝国のコインとか、なかなかレアなものが多くて買わんけど、見入ってしまいます。

見学のあとは、ドンハの街に戻ってお昼ごはん。
昼ごはん絶対観光地価格やろうと思ったら、思ったとおりでした(笑)

うちらは、高い昼ごはんを食べる欧米人をよそに、持参した3800ドン(20円)のパンをもそもそ食べましたw

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この大きさで20円は安すぎ!!

午後は、北に上がり、軍事境界線(DMZ)となったベンハイ川にいよいよ向かいます!

途中、ベトナム戦争で犠牲になった兵士たちのお墓を訪れました。

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そして、いよいよです!
川の南北2kmは、非武装緩衝地帯。
この門が目印です!

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これがベンハイ川!
そして、かかっている橋が、ヒエンルオン橋です。

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水色側が北ベトナム、黄色側が南ベトナムです。

たった40年前、この橋を渡ろうと思っても渡れなかったんですね。この辺に住んでいた人たちは本当大変だったに違いない…
うちらは、この橋の横の大きな橋をいとも簡単にわたって、北ベトナムに入りますw

川のサイドは公園になってました。

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このまま北に上がること20分。
ビンモックトンネルに到着。

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ビンモックトンネルとは、DMZ付近のビンモック村に住んでいた住民がアメリカ軍の爆弾から逃れるために作った地下の街です。
400人ぐらい住んでいて、中には病院、学校もあり、地下で17人の子どもが産まれたそうです。

6年間という長い年月、ずっと地下で暮らすなんて精神的にも相当しんどかったやろう…外は爆撃まみれやし、戦争はいつ終わるか分からんし…。
爆弾は、2100トン落ちてきたらしいです。想像をつきまへん…

これ、落ちてきた爆弾跡。

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めちゃでかくてびっくりした!

まず、資料館へ。
入り口にかけられてる彫刻がまた印象的。

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中には、使われてた銃が。

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そして、実際に生活してる様子の写真が。

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これが、地下で産まれた子供たち。

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産まれてからずっと太陽の明かりを知らないってどうゆうことって感じです・・・

実際にトンネルの中に入ります。

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狭いしとても暗い…

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砲撃で崩れないように、だいぶ地下に潜ります。地下3階ぐらいらしい!

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こんな狭いスペースに一家族が暮らしていました。

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マタニティールーム。

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ミーティングルーム。

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ここだけは、高さが高く、腰を屈めなくても歩けました。

ずんずん進んでいくと・・・
このトンネルは、海へと繋がっていました。

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海で魚とか獲って暮らしてたんでしょうか…。

たった15分ほど、通り抜けするだけでも息がつまりそうでした。
ここに6年…凄いって言葉で片付けるのも申し訳ないぐらい凄いです。

また、違う穴から帰っていきます。

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これが実際のトンネル内の様子です。

出た先は、入り口とはまた違う所で、驚きました!
これは案内がないと迷うなぁ・・・。

ビンモックトンネルを案内してくれたお兄ちゃんと。

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これにて、ツアーは終了です。

なかなかおもしろいツアーでした。
ベトナム戦争の遺跡にふれ、そのことで自ら学びたいと思い、調べ、知ること。普段日本で過ごしていたらベトナム戦争について考えないけど、考えるいいきっかけになりました。

夜は、うちらのアンコールツリースクールのボランティアのブログを見てくれて、連絡してくれた、小林さんとごはんに行きました。

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お互いはじめまして、だけど、向こうからしたら、いつもブログで見てる人が生でいる!ってなったらしいですw

いつもの居酒屋で。
また、ベトナム語メニューを見ながらテキトーに頼み(笑)

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そしたら、ポテトが出てきてびっくりしましたがw
二日前に頼んで美味しかったお魚と

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20000ドンとは思えない大量の野菜炒め。

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そして、牛肉!!これもヒットでした★

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小林さんも世界一周で、フィリピン入りでオーストラリア、バリ、タイ、カンボジアと回ってるみたいです。
もう6ヶ月回ってるけどなかなか前に進まない、と。いや、うちらもですwアジア居心地良すぎ!

閉店間際に、小林さんが昨日ツアーで出会った女の子も合流。

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タカナシさんは、アジアをぐるっと回ってるみたいです。
タカナシさんに一目惚れの店員w

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明日はホイアンに移動なので、最後にお別れの挨拶をしました!

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店主のおっちゃん。おもろいけど、写真撮られるの緊張するみたいw
みんな英語通じないけど、笑顔は通じるね!

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ホンマ楽しかったぜ、フエ!また来るよ!

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ハノイの歴史博物館へ行ってきた。

こんばんわ!つばさです。
今日はめちゃくちゃ濃い1日でした!!
かなりハノイを満喫してます♪

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今日は朝からカンさんと青空美容室♪(って言ってもバリカンで刈るだけですがw)
朝準備が完了したらカンさんが僕らの部屋に来てくれて、『はい!これプレゼント!』とレザーで作ったアクセサリーをくれました♪

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可愛いアクセサリーでめっちゃ嬉しくてすぐにいつも使っているカバンに装着♪
カンさん本当にありがとうございます!!

そして、ホテルの前で青空美容室♪

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まずは、カンさんが僕の頭を刈り上げます!

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完成ドン!!

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次は僕がカンさんの頭を刈り上げます♪

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完成ドーーン!!

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ちょっと刈り上げただけなので2人で10分くらいで終わったんですが、観光客に写真を撮られたり♪道行く人がこっちをチラチラ見てたり♪路上で何かをするの良いなぁ〜とか思いました。

それから、カンさんと一旦別れて僕らの今日の目的【ベトナム歴史博物館】へ!!
博物館へ向かう途中で小腹が空いたのでバインミーを食べました♪

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ホアンキエム湖が途中にあるので、そこでも撮影♪

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すると、目の見えない人が笛を吹いてました。

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博物館に行く道中もかなり楽しんで♪

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本屋さんにコナンの漫画が♪日本の漫画文化の凄さを改めて実感。
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博物館の裏にあるオペラハウス10/10が建国60年の記念日なので祭りを開催するみたい。
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博物館に到着!!が、13:30まで閉まっているのでちょっと待機。

おじちゃんが博物館の時間を教えてくれました。(8:00〜12:00と13:30〜16:00)
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博物館のチケットを購入して、入場♪

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ちなみに、博物館のチケットを買うと歴史博物館と革命博物館のチケットがセットになっています。(1人4万ドン(200円くらい))
歴史博物館は1945年の大東亜戦争終了までの資料が置かれていて、歴史博物館は大東亜戦争から現代までの資料が置かれています。なので、2つの博物館に行くとベトナムの歴史がわかるようになっています。

この2つの博物館には非常に多くの資料が展示されていて、ベトナムの歴史を学ぶ最良の機会になるので、オススメです。

入ってすぐのフロアには古代のベトナムの資料が置かれていました♪

進化論を現す展示物
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多くの展示物の説明文が、英語とベトナム語で書かれていたので、よくわからないと思っていたところに、日本語が聞こえてきて、宮城からベトナムに旅行に来ていて、日本語ガイドを付けていたので、その話を聞きながら進んでいきました♪
めっちゃラッキー♪

ガイドさんが、『ベトナムは中国と2000年間戦争をしてきた』と言っていて。
その時の資料を指差していた。

元がベトナムに攻め込んできた時はこの経路を通った
s元

陸路だと多くの山があって危険だから海路を通って攻め込んできたようです。この時ベトナム人は潮の満ち引きを利用して元軍と闘い勝利を収めたようです♪

ハロン湾で元軍と戦うベトナム人
sハロン湾元

この頃からゲリラ戦を行って戦っていたようで、ベトナム人の戦闘スタイルはこの勝利が成功体験となって生み出されたのかと感じました。

そして、リー王朝時代には明軍と闘い。

リー王朝が継続された期間
sリー王朝続く

明軍が攻め込んできたルート
s明

明軍との闘いの写真
sVS明

リー王朝の時代になって物々交換から紙幣を使うようになったようです。
昔は硬貨を使っていたが、今のベトナムは紙幣のみになっていて、理由は重いかららしいですw

sりー王朝お金

リー王朝の時の首都はハノイで、かなり長い時間ハノイがベトナムの首都だったようです。

リー王朝の後に、とても学問を大切にしている王朝が生まれて、この時に一昨日行った文廟が出来たようです。
s学問を大切にした王朝

文廟にもあったんですが、この写真の鶴と亀には意味があるみたいで、『鶴は千年、亀は万年』という言葉から国を永久に繁栄させていく人材になって欲しいという想いが込められているようです。
この鶴と亀の像は多くの学校に置かれていたようです。

s鶴は1000年

その後1800年代にハノイからフエへ首都を変更して、新しい王朝が生まれます。
が、時代が進み大航海時代に入り、フランスがベトナムを植民地化するようになりました。
フランスはベトナムの王族を変えることなく、裏で支配するという仕組みでベトナムを植民地化していたようです。(イギリスが香港を支配していた時のよう)

フランスが植民地化していた時の王朝
sフランス占領

1800年代の時点でベトナムは下記写真のような武器を持っていて、この当時、江戸時代だった日本がもしベトナムと戦っていたら負けていたんだろうな〜と感じました。
s1800年代に使ってた武器

ベトナムがフランスに支配されてから紙幣にも変化がでてきて、紙幣の肖像が西洋人に変わってました。
s紙幣も西洋か

ここからベトナムに革命を起こしたホーチミンが登場します。

1920年にホーチミンはフランスやロシアに行って革命学を学んでいます。フランスよりもロシアの方側の革命学に傾倒し、共産党よりの考え方を得てきました。
ホーチミンは凄く頭が良くて、8カ国語を話せたようです。
そんなホーチミンが1930年ロシアから香港を経由してベトナムに帰って来て、ベトナムの独立運動を開始しました。

1930年から始まったホーチミンの革命運動
sホーチミン革命

多くの若者を煽動して精力的に活動を行ったようです。そして、1945年9月2日に独立宣言を行いました。

s独立

s独立宣言9・2

大東亜戦争(第二次世界大戦)が終了してすぐにベトナムは独立宣言を行いました。大東亜戦争中の日本に関して書かれていたことは、日本が戦っているこのチャンスにフランスを倒そう!!ということだけでした。
大東亜戦争を通じてアジアのいろんな国を侵略したと日本では教えられているのに、そんなことがこの博物館では一切書かれていなかったのに驚きました。

ホーチミンを中心とした革命軍の写真
sホーチミン達

独立宣言後も1954年にパリで行われたジュネーブ協定が結ばれるまでベトナムはフランスと戦い続けました。

ジュネーブ協定写真
s1954ジュネーブ協定

反フランスの教育を行っている様子
s反フランス教育

フランスの要塞をゲリラ攻撃している様子
sフランスの要塞陥落→ジュネーブ

しかし、ジュネーブ協定で決められたことは北緯17度線でベトナムを南北に分割することで、ホーチミンがいる北ベトナムがベトナム民主主義共和国。南ベトナムはベトナム共和国となりました。

1954年の2年後南北のベトナムを統一する動きをおこすが、南ベトナムが反対し達成ならず。
北ベトナムは共産党の流れがあるので、(ホーチミンがその勉強を行ったから)ロシアと中国が味方をしていて、この時冷戦中だったので、アメリカが、『共産党の国を増やさない!』『ロシアとの代理戦争』の考えの下、南ベトナムを支援し始めました。

ロシアと中国がベトナム民主主義共和国の存在を認めた文書
s中国とロシアが北ベトナムを認めた

北ベトナムの様子(ホーチミンが演説を行っている)
s北はホーチミン

南ベトナムの様子(アメリカ人が壇上にいる)
s南はアメリカ

美術館の中では道を挟んで南北の情報がわかれていた
s北と南に別れてる

南ベトナムをアメリカが支援することに反対するカンボジアや日本が非難の文章を書いている写真が展示されていました。

カンボジア人がアメリカ反対を掲げている
sカンボジアでもアメリカに反対

日本からベトナムへ送られた旗
s日本人からのメッセージ

この頃の日本は大東亜戦争で負けて、戦後20年くらいの時期で、ベトナムに送った旗にはこう書かれてある。
『南ベトナム人民の愛国正義の解放闘争を支持!共同の敵アメリカ帝国主義と戦う日本・ベトナム両国人民の戦闘的連帯万歳!』
一部の日本人が送ったものかもしれないが、日本が戦後アメリカをどう見ていたかはっきとわかる資料だと思う。

ベトナム国内でも国民の声が上がってきて、南ベトナム政府に反対して武力解放運動が始まった。北ベトナムはこの運動を支援する。

解放軍の写真
s南ベトナム内での解放運動

解放軍の活動が活発化したこと、トンキン湾でアメリカの軍艦が北ベトナムから攻撃を受けたこと(事実かは不明)を期に1965年からアメリカ軍による空爆を開始

アメリカ軍の空爆による被害の写真
s被害アメリカ

死んでいるベトナム人の近くで笑っているアメリカ軍兵士
s笑うアメリカ人

この空爆の時に、カンボジア人のゲリラ戦線に苦戦していたアメリカは枯れ葉剤を散布し始め、その影響で奇形児など後に広がる大きな影響を生んだ。

強力なベトナム軍と周りの国からアメリカへの非難のいよって1969年にからアメリカ軍は撤退を始め、1973年にパリで和平協定が結ばれ完全撤退する。

パリで結ばれた和平協定の写真
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1973年にアメリカが撤退した後も、ベトナム国内では争いが続いていて、1975年に一斉攻撃を仕掛けてベトナム戦争が終結。

撤退していくアメリカ軍
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現在のベトナム国家が誕生
s現在のベトナム誕生

1969年にホーチミンは亡くなってしまったので、革命後の平和な世の中を見ることが出来なかった。
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その後のベトナムは南部と北部の文化の違いから大きな飢饉に見舞われたり、ポルポト政権下のカンボジアに侵攻(1978年)によって国際的に孤立するが、『ドイ(変える)モイ(新しい)』という経済政策を樹立し1990年以降に経済発展を遂げた。
1995年にアメリカとの国交も正常化しASEANに加入。
過去の戦争の歴史をしっかり表現する文化を形成して、過去の社会体制を批判し新しいあり方を考える等、過去から学ぶ姿勢を作り上げ、現在に至る。

今回ベトナムの歴史博物館に行って、ベトナムから日本がどのように見られているのか、戦後の日本がアメリカをどう見ていたのか、また、アメリカやフランスなどベトナムに干渉した国がどのような影響を与えたのかを理解することができた。
多くの国が現在の立ち位置にあるのは、それまでの歴史の積み重ねによって作られていて。国家間の交流もこの歴史的事実から形成されているので、ベトナムから見た歴史を見ることができたのが嬉しいし楽しかった。

博物館に行ったあとに、飲んでいると以前一緒に飲んだベトナム人のトゥアンさんと再会。
トゥアンさんの友達も途中参加でいろんな話をした中で、トゥアンさんのお母さんが警察官でアメリカの軍人と一緒に写真を撮っていた話を聞いたり。
トゥアンさんの友達が『阿部(内閣総理大臣)大好き』とか『日本とアメリカとベトナムとフィリピンは仲間!中国は敵!』って言ってたのを聞いて、現地の人と仲良くなることでもっともっと多くのことを知れるなと思った。
(詳しい記事はあゆみが書きます)

世界を回りながら歴史を学んでいくことが、めっちゃ楽しいと思った体験でした♪

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タイのカンチャナブリーで歴史を感じました。

サワディーカップ!つばさです。(2014/05/16)
今日はカンチャナブリー周辺を散策しました!!カナーンゲストハウスで1日25バーツ(75円くらい)のレンタサイクルがあったのでそれを利用!!カンチャナブリ周辺のDeath Railway,Art Gallery&War Museum,Wat Tham Khao Puに行ってきました!!

Death Railwayは映画【戦場にかける橋】のロケ地で使われていて有名(みたい)です。
Art Gallery&War Museumは第二次世界大戦の資料があるという事で歴史好きな僕らは見逃せないので。(Jeath Museumhは同じような展示物らしいのでDeath Railwayに近い方に行きました)
Wat Tham Khao Puは洞窟寺院で有名です。

快適な自転車DAY&内容の濃い1日の始まりです♪

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まずはDeath Railwayへ
*Death Railwayは『死の橋』と呼ばれていて、第二次世界大戦の頃日本軍がイギリスの植民地インドを侵略する際に、タイからビルマ(ミャンマー)へ進軍する部隊の補給船として造られた橋なんですが、本来完成まで5年と言われていた橋を1年程で完成させるというハードスケジュールで作った事により、多くの労働者が死んでしまったことからそう呼ばれるようになりました。(マラリアなどが発病して集団感染し、亡くなった方が多かったようです)

過去の歴史は全く関係ないかのような完全な観光地になってました。

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この鉄道は現在も鉄道が走っていて観光しているところにゆ〜っくりと鉄道がやってきます。

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めっちゃ遅いので安心安心。観光客が避ける用の避難場所も作られてました。
そこで、鉄道を待ってる間にパッシャ!!

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橋を渡りきって対岸からDeath Railwayを見るとこんな感じです!!空がキレイで、サイコーのロケーションでした!!

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近くに水上レストラン等もあったので、全体が見渡せる動画もどうぞ!!

綺麗な景色過ぎてあゆみの撮影魂に火がついて5分程撮影をしてました〜暑い暑い

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綺麗な写真が完成!!

それから、Death RailwayからArt Gallery&War Museumへ移動(徒歩で3分ぐらいの距離感)

博物館に行って早速驚きました!!第二次世界大戦の時にタイで日本軍兵士が使っていた汽車がドーーンと置いてありました。
しかも、汽車に乗って撮影してもタダですよと英語で書かれているし・・・
こんなの良いのか??と思いながらもちゃっかり乗っちゃいました♪

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それからチケットを購入(1人40バーツでした!安い!!)

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博物館に入ってすぐ左にある建物に入ると・・・・えっ!?第二次世界大戦で使われた拳銃がたくさんざっくばらんに置いてありました。

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そして、天井には第二次世界大戦の進行が時系列で書かれていました。

最後には、日本軍が動いた道のりが書かれてあり、

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広島・長崎に落ちた原子力爆弾のことも書かれていました。

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その他、第二次世界大戦当時の写真がたくさん飾られてあります。
日本人の軍人の写真ですが、かなり若い方が写ってました。今まで鹿児島の知覧博物館や、広島の平和記念公園・大和ミュージアム、沖縄の平和記念公園で第二次世界大戦についての資料館を見てきましたが、かなり多くの有能な若い人材が戦争に駆り出されていて、その内の1人がこの写真の人かと思うと胸が苦しくなります。

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写真の中には第二次世界大戦ではなく日露戦争の時の写真も飾られていました。

バルチック艦隊の提督ロジェストウェンスキーが日本海軍の提督東郷に挨拶をしているシーン(左)
旅順港にある船に水雷を当てに行く日本海軍の様子(右)

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バルチック艦隊が日本を攻める為に通った航路

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どれも素晴らしい資料なのに置き方がかなり雑な感じがしました。
この部屋の様子を動画にまとめたので興味のある方は是非見てみてください!!

それから博物館の別棟へ!!

そこにも第二次世界大戦で使われていた銃が。
多くのお金が放り込まれていたので、恐らくタイ人が日本兵士として戦っていてその方が使っていた銃ではないかと思いました。(基本的にタイ語で書かれてあるので詳しくは読み取れませんでした)

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その建物を上に上がって行くと、タイの民族衣装や、戦争当時の雑誌・新聞・最新のファッション雑誌などが置かれてました。(最新の雑誌を見た時に思わずツッコんでしましそうでしたw)

3階まで上がって行くと無造作に置かれた靴達が・・・?

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靴が置いてある通りを左に曲がるとなぜかこんな写真が(18歳未満閲覧禁止w)

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なんかこの博物館ギャップが凄い・・・

先程行っていたDeath Railwayがキレイに見えたのでそこで写真をパシャッ!!

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こんなモノまでありました!!
おそらく日本軍が使っていたヘリコプターと小型飛行機でしょう。

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そしてまたまた別館へ!!(本当にこの博物館広かった!!)
ここでもいろんな物が飾ってありました。
第二次世界大戦当時の勲章やおそらくこの博物館の持ち主が買い集めた時計や映写機(どれも年期が入ってました)
その中でも凄いなーと思ったのが、

大日本帝国陸軍司令官が書いた文章

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第二次世界大戦で使われていたガトリングガン

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日本軍兵士が使っていた船とバイク

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そして、日本軍兵士が懲罰をしたあとの画像(何か理由があるとは思いますが酷いなーと思ってします。これが戦争なんですね)

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いろんな写真を見てみると、労働に当たっていた人は褌一丁で働いていて、日本軍は軍服に拳銃の装備。
反乱されると人数で負けるので、何も武器を隠せない・持てないようにしていたようです。

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それと、Death Railwayが米軍に破壊されているシーンが部屋一面に描かれていて、これも衝撃的でした。

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この部屋も印象的だったので動画に残しました。入ってすぐの橋の上にいる作業員は喜んでいるのか手を挙げてます。

本当に多くの重要な資料や物が残されていて、素晴らしい博物館だと思った。戦争をするという事、それにより起こる非人道的行為や悲劇の数々。最後に泣くのは国民である事実。もっともっと本当の歴史を知れる機会を増やすべきだと感じてます。第二次世界大戦(日本では大東亜戦争・太平洋戦争)で起きた多くの悲劇から目を反らさずに受け止めて、同じ過ちを繰り返す事のないようにするにはどうしたら良いか??をもっと建設的に考えられる機会が必要であると感じます。

それから、博物館の中でいい感じのイスを見つけたのでまったり♪
目の前の川で子どもが遊んでいて、そこに牛が来ているのを見て癒されました。

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最後に、Art Gallery&War Museumの看板の前で記念撮影。

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次の目的地Wat Tham Khao Puに向かいます。
途中で冷たいジュースを求めてよったスーパーでこんな物を見つけました。

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ワンピースは万国共通で人気なんだなーと思いつつ、10バーツの地元コーラを飲んで休憩。
あゆみブログ洞窟寺で恐怖体験へ続く。

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