スオスダイ!つばさです。
今日はプノンペンにあるキリングフィールド(チュンエク大量虐殺センター)に行ってきました。
カンボジアの重すぎる歴史。。。その歴史に触れてきました。
カンボジアにはベトナムとはまた違った歴史があって、その歴史をベースにして今のカンボジア人がいるんだな。と言うことを改めて考えさせられました。
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キリングフィールドへ私たちはトゥクトゥクを使って行きました。
交渉した結果、最初は15$と言っていた価格が9$に。
ツアーで行くと1人5$だったので、この金額なら納得できると決定。
朝10時過ぎに出発しました。
道が混んでいて到着したのは11時くらい。
早速キリングフィールドの中へ入って行きます。
まずは音声ガイダンス付き(日本語)のチケット(1人6$)を購入して入場。
日本語での音声ガイダンスがあることに驚きと感謝です。
ガイダンスを聞きなが中へ進みます。
入ってすぐに見える慰安塔はガイダンスの1番最後だった。
キリングフィールドの中には下記写真のような掲示板があって、その順路にそって進んで行き、そこでの出来事をガイダンスによって聞くというスタイルでした。
1〜19のガイダンスがあり、実際にキリングフィールドで働いていた方の証言や、トゥルースレン収容所の職員の証言、ポルポト政権時代を生き延びた人の証言など、ここでしか聞けない話を直に聞くことができます。
このキリングフィールドに入ってまず驚いたのは、キリングフィールドは総称であり、正確にこの場所は『チュンエク大量虐殺センター』と呼ばれていたことでした。
この時、ベトナムのハノイで出会った女の子が『レボリューションミュージアムって何か凄さが伝わってこない。それは日本でレボリューションって言葉を簡単に使い過ぎているから。』と言っていたことをこの時に思い出しました。
それは、私が『キリングフィールド』と人伝いに聞いていた単語が、私の中でただの観光地としてのイメージを形成していて、『チュンエク大量虐殺センター』と言う凄く生々しい言葉をガイダンスで聞き一気にイメージが転換したからです。
キリングフィールドの慰安塔に保管されていた頭蓋骨
キリングフィールド全体を周り、ここが大量虐殺が起こった場所とガイダンスで聞いてもなお、この全ての頭蓋骨が本当に1人1人が元々人間だったということを理解できませんでした。
ガイダンスの中にはいろんな話が盛り込まれていました。
ポルポト政権発足の経緯、ポルポト政権樹立後市民への影響、チュンエク大量虐殺センターがどのような運営をされていたのか、そして、その中で生き延びた人の経験談。
ガイダンスの中には、ポルポト政権(クメールルージュ)下の考えや、行った残虐な行動の数々が綴られていました。
【ポルポト政権下で兵士に共有していた言葉】
『罪のない人間を誤って殺すのは、敵を誤って殺し損ねるよりましである』
この言葉はポルポトの兵達達の中で言われていた言葉です。
ポルポト政権は1975年から1979年まで3年8ヶ月20日間続いたのですが、その中で、殺された人の数は30万人(諸説あるので、正確な数字ではないかもしれません)。その当時のカンボジアの人口は80万人だったので、人口の1/4がポルポト政権下に虐殺されました。
虐殺されたのは、政府に反対する可能性のある知識人達。
・学校の先生や医師、法律家等の専門家
・外国語が話せた人
・メガネをかけた人
・柔らかな手をした人
・僧侶や尼
など多くの人が虐殺されました。
政権発足当時は、この知識人達に『その能力を活かした仕事があるので、集合して欲しい』と通達を出し、集めて虐殺したようです。
その行動の根底には知識を持った人(罪のない人)を殺すのは、知識を持った人(知識を持った人の中にいるかもしれない敵)を殺しそこねるよりましである。ということです。
大量虐殺された人を埋めていた穴があった場所。周りを覆う木には多くのミサンガが祈祷の意味で結ばれていた
『雑草を取り除くなら根こそぎ』
ポルポト政権下では多くの人がチュンエク大量虐殺センターで虐殺されました。
虐殺される前、ほとんどの人はトゥルースレン収容所という所に収容されていました。
そこでは、収容者に対する拷問が行われ、謂れのない罪の証言をすることを強制されていました。
供述の中にはこのようなものがあったようです。
・求められた仕事を行わなかった
・人民共有の米を盗んだ
・秩序に従わなかった
・アメリカ、ロシアのスパイである
この供述を引き出す為に、数日・数週間・数ヶ月の拷問が行われました。
そして、この供述の中には拷問されている本人が罪を犯すだけではなく、自分の家族や友人、仕事仲間も同じ罪を犯したと書かれていました。
このように行ったのは、政権によって殺された人による復習を未然に防ぐという目的があったからです。
つまり、収容所に連れてこられた人(雑草)を殺すならその周りの人(雑草)も同時に殺してしまわなければならない。ということです。
当時チュンエク大量虐殺センターで虐殺された人たちの服。中には女性のものや子どものものもあった。
市民だけではなく、ポルポト政権の兵士達も殺されていた。
政権を少しでも批判した者は首を切って殺され、見せしめにされていた。
166人の首のない遺体が埋められていた場所
【ポルポト政権について】
ポルポト政権下では、都市に住む人のことを新市民。農村部に住む人を旧市民と呼んでいました。この2つの市民の中でポルポト政権が重要視したのは旧市民です。
ポルポト政権は狂信的な共産主義思想を基に樹立していて、『土の上で働く人』が権利を持つ自給自足の社会を目指しており、ポルポト政権下の兵士を旧市民の中から集めました。
この当時のカンボジアはベトナム戦争の影響で、地方にアメリカの空爆が落ちて来る等の影響により、汚職と食料不足により極度の貧困に襲われていました。
その為、アメリカからの空爆を逃れるために市内に非難した人たち(旧市民)も市内に住んでいたのですが、ポルポトが1975年4月17日の時点で市内に居た人は全て新市民とみなされ、強制労働所へ連れて行かれました。
旧市民にポルポト政権が伝えたことは1つ。
『新市民は利己的で悪である。人々の苦しみは都市部の新市民のせいである。そして、新市民は寄生植物で戦敗者の捕虜である。』
農村部に住んでいる人のほとんどは、教育を受けていない人で、現代社会に対する知識がなかった為、判断基準もなく、この言葉を信じポルポト政権の兵隊になりました。
こうして、カンボジア人がカンボジア人を殺す国家が誕生しました。
【トゥルースレン収容所とチュンエク大量虐殺センターについて】
虐殺された多くの人はまずトゥルースレン収容所に連れて行かれました。
そこで、拷問を行った上でチュンエク大量虐殺センターに運ばれたのです。
移動する際に、収容所の看守からは『新しく住む家が見つかったから移動する』と伝えられていたようです。
移動する際は、目隠しに後ろ手を縛られていて、脱走しないように厳重な監視体制を敷いていたようです。
トラックでの輸送は夜に行われました。
なぜなら、周りの住人にこの場所で虐殺を行っていると気づかれないようにする為です。
そして、毎晩『マジックツリー』といわれる木につけたスピーカーからポップな音楽を鳴らし何事もなかったかのように見せていました。その音楽で死に際の最後の断末魔の叫びすらかき消していたのです。
ガイダンスの中にその音楽を再現した物があるのですが、なんとも不気味な音楽でした。
マジックツリーのとこのガイダンスで『菩提樹と言われる釈迦が悟りを開いた木なのですが、そのような幸運なことはここでは起きませんでした。』と言う言葉があり心苦しくなった。
到着後1人1人穴の前に呼ばれて、名簿に照らし合わせ確認し虐殺。
到着したその日に殺されず、チュンエク大量虐殺センターの部屋で1夜を過ごす人も居たようです。
その中には自分の処刑実行書類にサインさせられた人もいました。
その時のその人のことを考えると胸が締め付けられます。
ポルポト政権はお金がなかったので、人を虐殺する為に銃は使いませんでした。理由は、弾が高過ぎたからです。
虐殺する際に使われたのは、鍬や鎌などの農具。本来は鶏を殺す時に使う木の幹などです。
1度切り裂いただけでは死なないので何度も何度切ったり刺したりしていたかと思うと言葉がありません。
実際に使われた道具
チュンエク大量虐殺センターには多くの穴が今でも残っています。
そして、この穴全てに人が大量に埋められていたのです。
チュンエク大量虐殺センターでは2万人の人が無惨にも殺されてしまいました。
チュンエク大量虐殺センターを発見した当時はこのような様子だったようです。
実際に発見した人の言葉に『酷く臭い匂いがしたので、そこを覗いてみるとそこには多くの人間の死体があった』とありました。
目隠しをされたまま殺された人の遺骨
現在も土の中から多くの骨や歯、衣服が見つかっているようです。
見つかった遺骨
見つかった歯
【キリングツリー】
チュンエク大量虐殺センターにはキリングツリーと呼ばれる木があります。
この木がキリングツリーと呼ばれるには理由があります。
その理由は、この木に人を打ち付けて殺したという事実です。
キリングツリーの横にも穴があり、ここには女、子どもが埋められていたようです。
ここでころされた女性はほとんどが若い女性だったようです。
カンボジアの女性は元来控えめで、お風呂に入る時や海に入る時も衣服を着用しています。
が、その習慣を知っているはずのポルポト政権下のカンボジア人兵士に殺害される時に、女性は衣服を全て剥ぎ取られ、恥ずかしめを受けた上で虐殺されたようです。
そして、子ども(乳幼児)がいる母親の前で、子ども(乳幼児)の両足を持ち先程のキリングツリーに子どもの頭をぶつけ殺害して穴に落としてから、母親を殺すという残虐な行為まで行っていました。
目の前で子どもを木にぶつけられて殺される母親の気持ちは、はたしてどんなものなのか。。。想像がつきません。
キリングツリーを最初に見つけた人は、『なぜこの木の幹に血痕や髪の毛、脳みそが付着しているのか不信に思った。でも、その横にある穴を覗いてみるとその理由が全てわかった』と証言しています。
【慰安塔について】
チュンエク大量虐殺センターには、ここで亡くなった全ての人に祈りを捧げる慰安塔があります。
慰安塔の中には、ここで亡くなった人の頭蓋骨が多数保管されてます。
そして、慰安塔の中に入って近くで見ることが出来ます。
冒頭でも書きましたが、この全ての頭蓋骨が模型ではなく生きていた人間のものだと私は実感することができませんでした。
こんなに多くの人がこんなに無惨に殺害されるなんて、戦後平和になった日本で育った私には考えられないからです。
しかも、この行動はたった40年前の出来事だと言うことに驚きを隠せませんでした。
慰安塔内にあった日本からの千羽鶴
【キリングフィールドに行ってみて】
キリングフィールドに実際行ってみて、私はとても陰鬱な気持ちになりました。
実際に行かないと伝わりづらい、現地で感じる穴からの匂い。独特な空気。そして、所々に置かれた虐殺された方の遺骨。
全てが私の気持ちを暗く、そして重くさせました。
中でもキリングツリーは壮絶で、まだ産まれたばかりの子どもを木に打ち付けて殺害する様子。それを間近で見せられる母親。泣け叫ぶ母親と子どもの様子、その行動を行う兵士の顔、心情を想像すると・・・
兵士達の証言の中で、『革命の反逆者にされて殺されるから。言われた通りのことをするしかなかった』と言うものがありました。
仮に兵士達も言われたからやるしかなかった。という状況だとすると、母親、子ども、兵士全ての人が悲しい想いをここで体験したのです。
その後、生き残った兵士はどのような人生を送っているのか?この事を考えるだけでも悲痛な気持ちになります。
ポルポトは、1940年代にフランスへ無線電子工学を学びに留学しました。
フランスで共産党に入党し、中国の毛沢東を崇拝しました。
カンボジアに戻ってからは、教師として働き、教師を集めて革命軍を作り、ポルポト政権を作り上げました。
ポルポト政権を作った後、今後反乱する可能性があるからと称して、一緒に革命を行った教師達や自分の家族、兄弟を虐殺しました。
そして、ポルポト政権が指揮を執る民主カンプチア国を作りました。
私はこの経歴を見て、ベトナムのホーチミンのことを思い出しました。
共にフランスの植民地だったカンボジアとベトナム。
その後国を変えた人物(ポルポトとホーチミン)がフランスに留学し共産党に入党。
ポルポトは中国をホーチミンはロシアをベースにした共産党の考え方を自国に持ち帰り革命を行った。
その後、ホーチミンはフランスの植民地支配から独立を果たし、南北に分断され、それでも仲間とともに闘い抜いて、強敵アメリカに勝って、現在のベトナム社会主義共和国を樹立した。
これに対し、ポルポトはプノンペンを占領し、民主カンプチア国を樹立。一緒に革命を行った同志を殺害し、多くの市民を虐殺。カンボジア人がカンボジア人を殺すという内部に敵を作り出してしまった。その後ベトナム軍に攻め込まれタイとの国境までポルポトは敗走し、民主カンプチア国は崩壊。
経歴の上では同じような人生を歩んできたはずなのに、考え方1つで大きく変わった2つの人生と大きな影響を受けた多くの国民。
私は、ポルポトが猜疑心満載の秘密主義で人を信じられなかったことに問題があるのではないか?と思いました。
そして、そんな1人の人間が上に立ったことによって、30万人もの命が失われてしまったことに驚くと同時に、このような事を2度と繰り返してはいけないと強く感じました。
最後に、ポルポト政権を生きた人の証言にあった言葉でキリングフィールドでの体験についてまとめたいと思います。
『大量虐殺が行われた国はカンボジアだけではない。ロシアやドイツでも行われている。しかし、カンボジアで大量虐殺が行われたことが現在のカンボジアに大きな影響を与えている。この悲劇2度と起こさないように次の世代にきちんと伝えていくことが、この博物館と体験した我々の使命だ』
回っている途中大雨が。泣いているようだった。
結局、チュンエク大量虐殺センターに4時間程滞在していて、トゥクトゥクの運ちゃんには申し訳ないことをした。
『4時間も中にいるなんて長過ぎるよ〜』と何度も言われた。
キリングフィールドを出るとこの近くに住む子ども達がいた。少し癒された気持ちになった。
そして、無事ホテルに送ってもらって運ちゃんと一緒に写真撮影。
帰ってきてから少し宿で休んで、晩ご飯を食べに屋台へ。
1プレート7000リエルのヌードルを食べました。
それから、昨日見つけた1杯0.5$のビールを飲みにバーへ。
私たちがこの旅で行った店で1番オシャレといっても良いぐらいオシャレなお店でした。
バナナのおつまみが無料で付いてきました。
ビールを飲んでいると現地民がダーツを初めて、見ていると『勝負しないか?』と声を掛けてきました。
負けたら腕立て伏せ20回を賭けて勝負開始!
結局2回勝負し見事2連勝!
お兄さんは腕立て伏せを40回してました。
かなり濃い1日が過ぎていきました。
明日はトゥルースレン博物館に行ってきます。
本日もご愛読ありがとうございました。
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