「歴史」カテゴリーアーカイブ

大連で満州を感じた~満鉄本社-ロシア人街-東本願寺-中山病院~

ニーハオ!あゆみです。
中国で私が大好きな緑豆のおつまみがあるんだけど、それをお土産で買って帰ったら会社でも大人気でした!
緑豆をフライしたお菓子って日本にあまりないよなー。

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中国旅行5日目。今日は大連の街ブラ第2弾です。

中国1~4日はこちらです。↓
1日目
2日目
3日目
4日目

まずは、昨日夕方に寄って、連絡したら入れることが分かった旧満鉄本社の見学からです!!
大連旧満鉄本社

ドアを開けようとするドレッドの人・・・笑
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今はここは、中国の鉄道会社が使用しているのですが、9:30の予約で中に入れさせてもらうと、案内役の方(おそらくこの会社に勤めている方)が登場しました。

満鉄の方々が使ってたテーブル。めっちゃ年期入ってる!
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あと、重厚な階段。
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このタイミングで「写真撮影禁止だよ」って言われました。そんなん聞いてへんし!!

部屋は、満州の歴史について詳しく書かれているパネルとか、満鉄時代の品々が飾ってあるミュージアムになっていたんですが、この案内の人がサクサク行くのでなかなか細かく見れませんでした。なんか「仕事の合間にやってるから、忙しい」みたいなこと言ってたけど、うちら金払ってるんやから細かく見させてもらってもいいのに!!
ほんの10分ぐらい見学したら終わりだったのでちょっとガッカリ。。。
傲慢な態度だったのでこれから大連に行く方々に、ここの見学はしなくてもいいよ、と言いたいw

昨日から楽しみにしてたイベントが一瞬で終わったのでしょんぼりしてたら、目の前に満州時代から使用しているチンチン電車が来て、がぜんテンション上がりました!!
大連の路面電車

飛び乗りました~
中もレトロな感じで素晴らしい!!
大連の路面電車

ただ、こんなレトロでも電子マネー対応w
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10分ほど乗って、旧ロシア人街にたどり着きました。
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ここは満州時代にロシアを模して日本人が作ったロシア人街なんです。だから別にロシア人が住んでたわけではないです。
大連・ロシア人街

近くでよく見ると、瓦屋根です。
大連ロシア人街

今はロシアのお土産屋さんがいっぱい並ぶ観光地になってます。
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ここでロシアン帽とか買った帰ったら、マジで自分どこに行って来たん!?とかなりそうなんでやめましたw

でかいマトリョーシカなんかもありました。
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ビアサーバーがあったので、迷わず←ビールを頼んだら・・・
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なんかストロー付きで出てきました・・・w
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味は・・・なんか甘いんですけど・・・!!シャンディーガフ的な感じ!?
お酒は入ってそうでした。

ロシア人街を抜けて大連駅の方へ。
上野駅を模して造られた建物です。中へは電車のチケットがなかったので入れませんでした・・・。
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地下を抜けてその先にある凱旋広場を抜けて、お昼に魚食べたいねーって言ってたので、魚市場へ!
大連魚市場

この近くに魚を焼いてくれるところがあったんだけど、中国語オンリーで全く分からんし、どういう形態なのか仕組みも分からん!ってうなっていたら店長がわざわざ日本語が分かる人に連絡してくれて、しかも魚屋さんまで同行してくれました
ホンマに優しいというかおせっかいというか・・・。大阪らしさを感じますw

こんなに優しくしてくれたのに、結局昼は焼きはしてくれないというので、諦めました←
いやね、だってイカは焼きたいやんww

このあと東本願寺まで行くためにタクシー乗ったんだけど、そのタクシーの運ちゃんが道間違えたからすごく遠回りになっちゃったんだけど、降りるときに「ごめんね」って言ってタクシー代割引してくれた。
いや、もともとタクシー代安い(初乗り10元=150円)し、そんなことしなくてもいいのに、ホンマ優しさを感じる!!
どんどん中国がホスピタリティーあふれる良い国だなって感じます!
中国ってガメついとか、常識がないとか悪いイメージばっかだったけど、本当に思い込みってだめだな、実際に行かないとわからないなって実感!

東本願寺はThe日本といった感じでした。
東本願寺

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西本願寺はもう消えたんだけど東本願寺だけは残っていました。

近くの小学校では体育の授業をしてました。同じ校庭に4クラスぐらい同時でしてて、人数多いなという印象。
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そしてまたてくてく歩いて、満州時代の史跡巡りをしました。
途中のポストがレトロでかわいかった!
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最後に有名な中山病院。今も病院として使われているんだけど、本当に立派な建物です。
大連中山病院

大連中山病院

中国は、日清戦争で負けて多額の賠償金を取られたけど、結局満州時代に今でも使える良い建物をいっぱい建てたんやからいいやんって思っちゃいます。実際に大連はほかの地域よりも親日が多いのだとか。軽く日本語しゃべれる人もいるしね。あと、日本の駐在さんとかも多いし。

遅いおひるごはんは、いろんな野菜やお肉を自由に選んで鍋を作るスタイルのお店に行ったんだけど、ここのは汁なしタンタンメン風でした。
おいしかった!中国マジでご飯にハズレなし!!
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ホテルから沈む夕日を眺めながら、中国最後の思いにふけり・・・
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ビールを飲みまくりましたとさw
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日本と韓国の歴史について調べてみた〜旅に出る前に必要な歴史の知識〜

ハロー!つばさです。
先日書いた留学中に韓国人の友達と話したことで、調べてみたいと思った日本と韓国の間の歴史のことを調べたので、そのことを書こうと思います。

前回の記事はこちら↓
フィリピン留学中に韓国人の友達と話したこと〜兵役と慰安婦問題について〜

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今回調べたのは、日本と朝鮮半島の関係についてと、その際のできごとについてまとめました。
基本データはWiki参考なので、説得力に欠ける部分があると感じるとも思いますが、韓国人と話している時に『あれ?これどうなってたんだっけ?』って僕がなった内容を調べてまとめました。

日本と朝鮮半島の関係が大きく動いたのは、日清戦争後からなのですが、その後三国干渉などがあって保護国から離れていたりしたので、実質的な変化の起点となった日露戦争から紹介していきます。

1904年から始まり、1905年に終了した日露戦争で朝鮮半島は陸軍の主な戦場となった。
ちなみにこの際、大韓帝国と言う名前の国だった。

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日露戦争が終わった後、朝鮮半島内での日本の影響が絶大となり、日本の保護国となる。
その後1910年に日韓併合条約により、大韓帝国は日本に併合され、滅亡する。

1910年から1945年の第二次世界大戦で日本が敗戦するまでの35年間が、日本が朝鮮半島を支配していた期間になる。

【統治している間の変化(朝鮮半島の変化と日本が行った支援)】

・土地の権利確定、水防工事や水利工事、金融組合、水利組合を作りお金を低利で借りれるようにする→安心して農業ができるようになり、また生産性が高まったので農作物を日本に輸出し多額の利益を得ていた。(代表者はサムスングループの代表者この際に得た利益でサムスングループの前身を作った)

・小学校を作成。統治前は100校→1943年には4271校。ハングルを必修科目とするが、教授言語は日本語。ハングルの識字率ハングル6%→22%に上がった
科目は日本語、朝鮮語、算数、日本史、朝鮮史、修身など。
普通学校の就学率は1910年で1%→1923年に11.2%→1943年には49%になった。

・1933年に民主的選挙の導入。8割以上の議員が朝鮮人となる。

・朝鮮が日本にとって日本本土を守る重要な要であり、日本の中で最も遅れている地域の1つと捉えられたので、富国強兵政策に従い、国家予算を朝鮮半島に使い、鉄道、道路、上下水道、電気インフラ、病院、学校、工場など最新鋭のインフラの整備を行なった。(主な労働力は朝鮮人が行い、無償労働による工事も行われていた)

・衛生面や生活面の向上からコレラ、天然痘、ペストなどの伝染病による乳児死亡率が減少したので、平均寿命は1910年24歳→1942年45歳となった。

・人口推移は1910年1313万人→1942年には2553万人

1944年9月から1945年8月まで朝鮮半島でも国民徴用令をだす。それ以前は志願兵制を取ってて、1937-1943年で志願者総数は799,201人合格者は17,664人だった。日本本土への朝鮮人徴用労務者の派遣が行われた。(1959年の外務省の調べによると徴用で日本に来て在留しているのは245人)
その他の渡航者は大半は職を求めての個別渡航で日本にやってきてて、工鉱業や土木業の募集に応じて来た者だった。

【慰安婦に関しては】

・慰安婦制度を確立したのはフランス。(1802年)目的は性病対策と軍事慰安だった。
・1910年に婦人売買禁止に関する国際条約が国際連盟で取り決められた。
→慰安制度があったことが国際的に認められていた。

・朝鮮において、少女を誘拐したり妻だと偽って人身売買を行うケースが増えていた。
女性の値段は500-1200円。
・朝鮮総督府警察はこの誘拐業者を取り締まり、そのデータによると略取・誘拐の検挙数は1935年朝鮮人2,482人・日本人24人、1938年朝鮮人1,699人・日本人10人、1940年朝鮮人1,464人・日本人16人。
→人身売買を行っていた人の中に日本人が入ってるのが残念だが、それ以上に朝鮮人の量に驚く。

・日本では慰安施設の設置が強姦や輪姦の抑止になると考えられていて、設置前には強姦が多発していた。ただ、設置後も強姦は絶えなかった。

・1938年に慰安婦の募集が行われた。
3000人の募集で、契約は2年前借金は500-1,000円まで、16-30歳まで。
また、「慰安婦に就職しないか?」と勧誘していた不審な男が逮捕されたりもしてた。

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慰安婦への給料は不払いが起きないように管理されてて、半額を預金通帳へ、半額を軍票で渡していた。
故郷に1000円で家を建て、5000円は兄に送るなどのケースもあった。
日本軍を相手とした場合、半分以上は女性の手取りとなり、残りは業者のものになった。
日本の内地より朝鮮半島の慰安所の給料が良かったので、吉原から朝鮮半島へ移動した人もいた。
→朝鮮半島の慰安施設の厚遇が見られる。

・ビルマにあったマンダレー慰安所においては、使用者の守るべきルールとして、「過度の飲酒者は遊興せざること」「従業員に暴力を行わないこと」「サックを使用し性病予防を行うこと」「違反者は慰安所の利用停止ならびに会報に載せ、その部隊の使用停止につながる」とされていた。

日本政府から「慰安婦を誘拐まがいの方法で募集を行う業者がいるから注意せよ」という通達が出されていたが、その業者への軍の関与と解釈するか、対策と解釈するかで意味あいが変わっている。
→解釈の違いで大きな論争になっているポイント。

第二次世界大戦において戦地での性政策は自由恋愛型(私娼中心。イギリスの・アメリカ)、慰安所型(日本、ドイツ、フランス)、レイプ型(ソ連、朝鮮)の3タイプ。
日本における慰安婦の制度・運用・実態に関しては、客観的に叙述が難しい。
ちなみに第二次世界大戦の際に国家管理型で慰安婦制度を採っていたのは日本とドイツ。

【挺身隊と慰安婦の混同】→どうやらこの件に関する混同が現在の論争を呼んでいるようだ。
挺身隊→主に工場などの勤労労働に従事する女性
慰安婦→戦地や占領地、内外地での公娼。

・日本での政策
1944年8月、日本内地においても日本人女性を工場に強制動員する女子挺身勤労令が出された。(12-40歳までの未婚女子)また、学徒動員もあった。

・韓国での政策
朝鮮では、1944年9月から徴用令を出した。朝鮮半島の女性に関しては、日本内地における徴用令も女性への女子挺身勤労令も発令されなかった。
が、学校の先生の斡旋によって、女子挺身隊が日本内地へ向かった事例(総数は1万人)もあったため、挺身隊と慰安婦が混同され、「挺身隊に動員されると慰安婦にされる」というデマが流布した。
この事は朝鮮総督府も認識してて、挺身隊→慰安婦というデマのせいで、労働力の確保がこれから難しくなるという予想している。
→韓国の当時の総督府はデマだと明言している。

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【敗戦後の日本の在留民への扱い】

ソ連軍では慰安所は設置されてなかったが、レイプが黙認されていて、満州や朝鮮半島では日本人女性の強制強姦が各地で繰り返されていた。
また、朝鮮人もソ連軍兵と共に非戦闘員の女性に対して集団強姦を行い、強姦後に虐殺するケースもあった。
強姦により妊娠したり、精神的な病を患った女性の治療をした二日市保養所では4500件の中絶手術が行われた。
→なぜこの点が問題意識を持たれないのか?と思う。

【戦後】

1945年に日本が敗戦し、朝鮮半島はアメリカとソ連の統治下に入り、38度線で区切られ、南部を韓国、北部を北朝鮮とした。

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統治後日本においては占領軍による一般女性のレイプ事件が予測された為、連合軍向けの慰安施設を設立した。
慰安所を作ったが、進駐軍が民家に入り女性を強姦する事件は多発した。この事件は連合軍元帥のダグラス・マッカーサーももちろん認知してて、アメリカ軍から女性を守ろうと作られた自警団はアメリカ軍の戦闘車両により鎮圧され、刑務所に監禁された。

韓国は自国が第二次世界大戦の戦勝国だと主張するも、統治下だったので認められず、独自に日本と交渉を始める。

交渉中に1950年から朝鮮戦争が勃発。
朝鮮戦争中、日本人の慰安婦も在日米軍基地や朝鮮半島に連れて行かれた。

1965年に日韓基本条約を締結。
この際に1910年以降に交わされた全ての条約や協定は全て無効であることが確認される。
また、日本は韓国に対して巨額の資金協力を行なった。無償3億ドル、有償2億ドル、民間借款3億ドル。
また統治時に日本政府が作った施設などは無情件で韓国政府のものになった。

この条約により取り決められたことは、

・個別請求権の問題解決
・相手国に対する個別請求権の破棄

3億ドルを年2500万ドルの支払いを12年間払うことが決められた。

日本はフィリピン・インドネシア・ベトナム・タイ・ビルマ・台湾に7600万ドルを毎年支払っていた。
この中でフィリピンが最多の額が2500万ドルで、フィリピンに支払っている金額と同様の額を韓国に払うが、フィリピンに対しては12年と長期ではなかった。

韓国政府に支払ったお金は朝鮮半島に払ったものなので、被害者に向けたものや北朝鮮に対する賠償金でもあったが、政府はもらったお金のほとんもを韓国政府のためにのみに使った。

韓国政府が第二次世界大戦時の軍人・軍属・労務者として招集された人の遺族に払ったお金は30万ウォン(当時約2.24万円)。総額91億8000万ウォン(当時約58億円)。無償3億ドル(当時約1080億円)の5.4%のみだった。

日韓基本条約によって、個別・集団請求権の破棄・解決がらなされ、その際に取り決められた約束を日本は支払いという形で行なったが、2015年の締結に至るまで、韓国政府は日本へ請求してきて(日韓基本条約には慰安婦が入ってなかったとかイチャモンつけて)、2015年の締結時にはまた改めて10億円もの大金を支払った。

ちなみにドイツが行ったユダヤ人に対する政策は、1人につき6000マルクを支払うというものだったようです。

調べてみて。

慰安所を管理しているのが日本軍。
条件に関しては日本政府が決めるが、慰安所に慰安婦を連れてくるのは業者。
業者の中には強引に連れてくるものもいた。業者はもちろん日本人だけでなく、中国人や朝鮮人も業者として働いていた。
慰安所を運営している業者にはもちろんメリットがあった。
→これが強制的に連れてこられた慰安婦の実態なのかな。と思う。

敗戦後、移住していた日本人も大きな被害を被った。
→なぜこの問題に問題意識を持たないのか?中絶件数を考えると、大問題だと思うが。
逆に朝鮮の慰安婦の中絶手術の件数を知りたいと思う。

日韓基本条約とはなんだったのか?と思う後の対応に関しても留意したいと思った。

調べることで知れる知識があるのは嬉しいと思った。
ただ、上記のものも歴史の一方的な解釈に過ぎないので、意見としてもつがこだわりは持たず、柔軟な姿勢でいることが重要だと思う。
歴史認識に関して、意見がないのが一番ダメなことだと思うので。。。

参照
日本の慰安婦
日韓併合条約
日本統治時代の朝鮮

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フィリピン留学中に韓国人の友達と話したこと〜兵役と慰安婦問題について〜

ハロー!つばさです。
今回は留学中に韓国人の友達と話した事を書きます。
僕の学校は韓国資本だったので、韓国人がたくさん学校にいて、ルームメイトも韓国人でした。

みんなめっちゃいい奴で、一緒に生活してて楽しかった。

せっかく仲良くなったからと言う事で、韓国と北朝鮮の国境に行った時に興味を持った兵役について、僕が韓国人の友達に聞いた話と、友達から慰安婦問題についてどう思う?って聞かれた時の話をしようと思います。

韓国と北朝鮮の国境に行った時の記事はこちら↓
韓国と北朝鮮の軍事境界線(DMZ)に行ってきた〜韓国と北朝鮮のリアルな関係が見れた〜前編
韓国と北朝鮮の軍事境界線(DMZ)に行ってきた〜韓国と北朝鮮のリアルな関係が見れた〜後編

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まずは、韓国の兵役について。

תרגיל גדודי קרקל

韓国人の男性には2年間の兵役に従事する義務があります。
この兵役を乗り越えないと一人前と認められず、正社員として仕事に就くこともできません。
多くの人は、高校卒業後か大学在学中に休学して兵役に就くようです。

兵役の話は3人の友達から聞いて、概要・環境面に関して・兵役のメリットの順番で書こうと思います。

まずは、概要から。

兵役中は4つのパート(1パート6ヶ月間)があるようで、入隊後最初の6ヶ月間は猛烈に厳しい部隊に参加し、全くプライベートなしの生活を送るようです。

殴る蹴るとかも普通で、先輩には逆らえない状態らしいです。
その後少しずつゆるい部隊に移動して、最後の6ヶ月間は少しは自由がある身分になれるようです。
兵役中の兵隊がもらう給料は月額8000円くらい。

学校のグループレッスンの中で、『もし自分の人生で過去に戻ってやり直しができるならいつがいい?』って質問で、ある友達が『military serves(兵役) の後がいい。もう一度兵役に就くのは嫌だ!』って言ってたのが印象的でした。

環境面に関して。

どこの部隊に所属するかが重要で、ある部隊では訓練中に目が見えなくなったり、負傷したりするようです。
ただ、軍に従事している医療機関があまり良くないらしく、多くの兵は休みを取って、自分が普段から通っている医者に行くようです。
その友達は、何よりも変えて欲しいのは医療機関の質だと言ってました。

あと、『兵役中は北からの脅威についてどのように考えてたのか?』と聞くと彼は、『北朝鮮が攻めてくる可能性は低く、今北がやってる事はほとんどがパフォーマンスだ。』と言ってました。

なので、そこまで危機感とかがある感じではなく、兵役に就く必要があるからその期間だけ就くという、一種の通過儀礼のような位置づけのように感じてたようです。

最後に兵役のメリットについて。

多くの韓国の友達は『兵役はもうやりたくない』と言うんですが、それと同時に『兵役をやって良かった』と言っています。

と言うのも、兵役中の礼儀や作法の教育がしっかりしているので、知識量が増え、立ち振る舞い方を知ることができ、圧倒的に体力や忍耐力がついたと。
その結果、『韓国では男と女の間で知識格差があるんだ。』って言ってました。

あと、これは実際に聞いた事ではなく、僕の実感ですが、部隊や時期は違えど同じ兵役をこなしたことによって、ある種の一体感や仲間意識が韓国人の間で生まれてるなと思いました。
そのメンバーが将来企業を担う役割になった時に、強いチームワークを生み出すことで韓国の企業は伸びたのかなーと。

『戦争が起こらない』と言う大前提の元で考えると、兵役のような時期がある事は大きなメリットを生むのかなーと思いました。
まぁ現実問題、今の日本でやるのは難しいし、無理だとは思いますが。

次に慰安婦問題について。

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慰安婦問題については、ある日の昼食に食堂でご飯を食べながら今まで行ったことのある国について話をしている時にある友達が、『comfort women』の事は知ってる?って聞いてきたことから始まりました。

最初『comfort women』の意味がわからなくて、何の話をしてるんだろうと思ってたんですが、google翻訳で調べると、それが慰安婦だと言うことがわかりました。

彼は『慰安婦問題について日本人がどう考えているか?知りたいと思っているけど、どの日本人に聞いても良く分からないって言われて話が終わっちゃうんだ』と言ってて、これは日本人として大問題だ!と言うことで時間を作って話すことにしました。

話したときの会話の流れをそのまま書いたので、読みにくかったらすみません。

まず最初に慰安婦がいたかどうかについて話しました。

僕は『今の風俗嬢のような、お金を貰ってそういうことをする人がいたが、それらは全て募集して集めたもので、強制ではない』という主張をしました。

彼は『韓国人は仕事があるからと集められ、そこに行くと実はその仕事が慰安婦だった。だから強制だったし、中には惨殺される人もいて、その証拠写真がこれだ!』と当時の募集票の写真や韓国語と日本語翻訳がされているサイトのページを見せてきました。

35年間の支配や滞在していた部隊の多さから100パーセント強制的な行為や殺害事件がなかったとは言えないので、一旦慰安婦がいたとして話を進めました。

その後、仮に強制的な慰安婦がいたとして、その人たちが被害について日本の安倍首相に認めて欲しいという主張をしたが、安倍首相がそれを認めなかったことについてどう思うか?という話になりました。

僕は『それを認めさせるのは難しい。と言うのも2015年に日本と韓国の国家間で慰安婦事件に関して話を終わらせましょう!って言う締結(日韓合意)をして、その際に日本は韓国に対して支援金を送っている。もちろん、第二次世界大戦で負けたから、その前からずっと賠償金を払っているし。
国家間で決まったことを、個人→国で主張して認めさせるのは無理だ。もし、この件に関して問題提起するならまず韓国の政府に言うべきだし、もし、今回の締結を破棄するならその際に払った支援金は返却すべきだと思う。』と言う主張をしました。

これに対して、彼は『でも、強制的な慰安婦がいたのは事実だからそこに対して認めないのはおかしい。ドイツは現在もユダヤ人に対して支援金を行なっていることを知ってるか?ドイツは第二次世界大戦で犯した罪に対する支援をずっとしてるのに、日本が辞めるのはおかしい。日本は韓国に対してひどいことを行なったのだから。』と言ってきました。

この意見に対して、僕は『ではなぜ日本とドイツが支援をせざるを得ない状態になったか知ってるか?それは戦争に負けたからだ。もし、本当に仮の話だが日本やドイツ・イタリア軍が第二次世界大戦の時に勝っていたら、韓国に賠償金を払うとか、行なった行為に関して支援を行うとかそう言う事態は起きてなかっただろう。そう言うお金は全て負けた国が払うものだからだ。
それに、1900年前後の植民地支配の中で確実に植民地支配後に多くの征服された国で強制的な慰安婦はたくさんいたし、殺害もあった。だから今の多くのアジアの国でいろんな肌の色の子どもがいるし、実際にフィリピンでも混血児が多くいる。日露戦争の時にソ連軍のバルチック艦隊が泊まった寄港地では、どこも慰安婦だらけだったと言う資料も残っている。
では、なぜこれらの国が処罰されないのか?それは戦勝国だからだ!勝った国が全て自分達の都合のいいように解釈して作るから負けた国の問題になって、賠償金支払いの義務が生まれる。日本は第二次世界大戦で負けたから韓国やその他の多くの国に賠償金を支払った。』と主張しました。

この話をすると、彼は一瞬止まってそれは本当のことか?と言う反応をしたあと、考え直して『それでも日本が行なった行為は悪いことだそこの認識はあってるか?』と聞いてきた。

あまりにも日本が行なった行為を悪く言われるので、ベトナム戦争時の韓国兵の話をした。

ベトナム戦争時に傭兵として戦争に参加した韓国人は、ベトナム人の村を見つけると、村の人を全て殺して、女性にはレイプ→殺害。全ての金品を略奪していたと言う事実をベトナムを旅していた時に、多くの博物館で資料として確認して知ってたので、韓国人が行なった行為についてはどう思っているのか?と確認してみた。

また、日本は韓国に対してその罪を償う為に賠償金を払ったが、韓国はベトナムに関して何もしてない。仮に虐殺・レイプを日本が行なっていたとして、日本は罪を認めて賠償金を支払っているが、韓国は何も行っていない。日本の方がまだ誠実だと思うが?と言う風に聞いてみた。

すると、彼は『もちろんベトナム戦争時に虐殺、強奪、レイプをしていたのは知っているが、そこに政府は関与していなかった。だから国が責任を取る必要はないし、国の問題ではない。それに対して、日本は政府が慰安婦を作る事を許容して、慰安婦を管理する施設も作っていた。国がこのことに関与して動いていたという事実が一番の問題であり、国が関与していたから国が責任を取るべきだ』と言ってきた。

彼からすると、行為に対して国が関与したか?していなかったか?が一番の問題らしい。

僕は『当時を振り返ると、日本が慰安婦を管理することは当然の事だと思う。と言うのも満州事変が1931年からずっと続いていて、ずっと戦時中だ。満州国への兵の供給ラインである朝鮮にいる兵が変な事をして、戦えない状態になったり体調不良になると大問題だから、性的な感染経路になる可能性がある慰安婦が病気にかかってないか確認したり、生活を管理したりするのは当然だし、軍の規律を守る為に政府がそれに関与することは当然だと思う。だって、そこが戦争の戦場となり、ずっと戦争が行われていたのだから。
韓国は南北戦争の後、国の体制がしっかりしてない状態でベトナム戦争が始まり、傭兵として出て行った兵士を政府が管理できていなかったのは、政府の力がそこまで及ばなかったからだ。
行なった行為・行動は同じだからそこに差はない。』と主張しました。

それでも行なった行為に関して政府が関わったか関わってないかが一番の問題だとずっと言ってくるので、結局今日の話をしてどうしたかったのか?と聞いてみると、彼は『日本が韓国に行なったことが悪であると言う自分の意見を僕に主張し説得し認めさせたい』と言ってきた。

それは無理だ。と伝えた。
なぜなら僕は歴史感に関して自分で勉強して、自分なりの解釈や理解があるから、彼の意見を一つの側面として捉える可能性はあっても、彼の意見に傾倒されることも、彼の話の根拠が正しいとも思えないからだ。

結局国が関わったことが、問題になるか?ならないか?という話をいろんなたとえ話を交えながら続けていると就寝時刻の12時になり警備のおじさんにもう部屋に帰れ!と言われ、それで一旦話は終了した。
気づけば2時間ほど話をしていたようだ。

結局それ以降話す機会がなかったので、この状態で話は終了。
話の後も彼とは同じグループクラスを取ってるので、普通に挨拶し、普通の会話をして普通に過ごしてました。

今回の話で、新しい歴史に関する考え方や捉え方を知れたし、自分の知識が足りてない部分もわかったので、また調べてみようと思う。
それにしても、Google翻訳を使いながらでも、英語でこれだけのことが話せるようになったのは嬉しかった。

その後調べた内容はこちら↓
日本と韓国の歴史について調べてみた〜旅に出る前に必要な歴史の知識〜

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ワルシャワからベルリンへ〜念願のベルリンの壁に行ってきた〜

はろー!つばさです。
今回はドイツのベルリンでベルリンの壁を見た日について書きます。
この旅で見たかった場所の1つなので、来れて嬉しかった!!

ワルシャワからベルリンへの移動と合わせてどうぞ!!

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ワルシャワを23時発のバスを乗る予定なのですが、宿がチェックアウト後に滞在できそうもないところだったので、14時のチェックアウトと同時にバス停へ向かいました。

今回利用したバス停
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幸い、このバス停の中に待合室があって、しかもWiFiが使えたので出発時間までかなり快適に過ごすとばできました。

待合室
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近くのスーパーでビールを買って飲みました〜♪
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ビールを飲んだり、映画を見たりしていると出発時間になり、バスが来ました。

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バスは自由席だったので、適当に座りましたー!
あまり人が多くなかったので、最終的には1人二席使えてかなりしっかり寝れたのが良かった。

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予定時間にベルリンに到着!ユーロ圏は国境で止まる必要がないので早くていいです♪

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今回ベルリンにはベルリンの壁を見るためだけに来たので、ベルリンの壁の近くに宿を取りました!
宿に向かうためにトラムへ!

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このトラムの中がすごくて、日曜日の朝にほとんど誰も乗っていませんでした。
後から知ったことですが、ドイツは日曜日にスーパーなどの店舗が仕事をすることを法律で禁止しているらしく、めっちゃ殺風景でした。

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今回の宿は『Sun Flower』ってとこです。
チェックイン時間が16時と遅めですが、無料でカバンを預かってくれるし、部屋もキッチンも綺麗でした!

宿外観
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キッチン
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キッチン横のスペース
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部屋
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廊下はおしゃれな落書き
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宿の待合室で少しゆっくりと過ごしてからいざベルリンの壁へ!!

途中にあった車の柄が面白かった
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途中で見えた綺麗な建物
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歩いて10分ぐらいでベルリンの壁が見えてきましたー!
いよいよです。

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ベルリンの壁の僕らが行った側にはその当時のドイツがどのように支配されていたかが書かれていました。

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まず最初にベルリンの壁の真ん中に立ってみました!笑
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現在のベルリンの壁はすごい落書きがたくさんされていて、もうぐちゃぐちゃです。
でも、ペンキで描かれた絵の多くは何か伝わってくるものがあって、ついつい何度もシャッターを切っちゃいました。
ベルリンの壁に描かれている絵をどうぞ!今回は写真多めでお送りします!!

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絵の中には当時東ドイツで使われていた信号機のロゴが描かれていました。
このマークは今人気が出てきてブランドになっているようです。あゆみはこのマークが気に入っているようで、同じポーズで写真を撮っていました。

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歩いているとベルリンの壁のお土産やさんがありました。
中ではベルリンの壁の石も売られていましたが、本物かどうかは疑わしいところです。笑

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ここからもまだまだ多くの絵が続きます。

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ここで、ようやくベルリンの壁に描かれていることで有名なこの絵のところにたどり着きました。

おっさんのキスシーン
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有名らしいので、ここで一緒に写真を撮り、真似してみました。

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おっさんのキスシーンのあともまだまだ絵が続きます。

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あゆみがお気に入りのタッチの絵
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日本をモチーフにした絵もありましたが、落書きだらけでした。
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ベルリンの壁の上部から希望の虹が出ている絵
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無数の手形がつけられた絵
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有名な?車が壁をぶち破る絵は結構小さかった
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シュールのタッチ
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怨念?が描かれた絵
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金持ちの象徴のような絵の鼻はもちろん$
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ベルリンの壁が出来てから壊れるまでの年表
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ベルリンの壁が壊れた年とライオン
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ベルリンの壁はここまでだったので、最後にベルリンの壁の真ん中で撮影。

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実際にベルリンの壁に行ってみての感想。
壁が結構高いなーって感じました。別のブログで意外に壁は小さかったってのを見ていたのでもっと小さいのを想像していたからかもしれません。
あと、ベルリンの壁が二重になっていたことを知りませんでした。2つ壁が並んでたのを見てびっくりです。

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これは昔ベルリンの壁が壊れる前からあったのかは謎ですが、扉があったのに驚きました。
誰も通れないようにしている壁のイメージだったので、本当に意外でした。

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今は南京錠に愛を誓ったものがたくさん付けられていました。
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実際に現場に行ったからこそわかることがたくさんあるので、来てよかったなーと思うと同時に、これから数年後に行くとこの落書きが増えてまた違った感じに見えるんだろーなと思いました。
歴史を感じるものを見に行くのは本当にいいですなー笑

ベルリンに来た目的を達成したので、近くのお店で買い出しをして宿に戻りました。
ドイツと言えばソーセージということで、ソーセージを大量買いしました。
ドイツには白ソーセージというのがあって、レモン風味が少し口の中で広がるとても美味しいソーセージでした!!

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これ日本で食べたらめっちゃ高いんやろーなとか言いながらたくさん食べました。
やっぱり、原産地で食べるのが一番!!旅に出て強く思うことです。
そして、日本のお金を出せば形の良い食べ物がなんでも手に入る感がすごいなーって海外に出てから思います。

ちなみにインターネットで調べたところ、この白ソーセージは正しい食べ方があるようで、僕らも試してみました。

まずは、ソーセージを沸騰させたお湯で20分ほど温めて(火は消しておく)
そのソーセージの背の部分にフォークを刺し、ナイフで切れ目をつけ、ソーセージの皮を取ります。

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皮を全部剥がしたら完成!!
これをマスタードにつけて食べるのが正しい食べ方らしいです。

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食べてみた結果・・・・普通に焼いた方が美味しい!!
皮の噛みごたえがなくなって微妙・・・結局綺麗に剥がした皮もソーセージと一緒に口の中に放り込みました。
最終的に、湯がいて焼くという工程で作ったソーセージが一番美味しいことがわかったので、そのソーセージの美味しさをあゆみが表現しました。笑

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ソーセージに合うビールはもちろん完備です笑

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キエフにある大祖国博物館に行ってきたー〜キエフの学生との出会い〜

はろー!つばさです。
今回はキエフの大祖国博物館に行った時のことを書きます!
大祖国博物館はウクライナが経験した目線から、第二次世界大戦を表現した博物館です。
展示の説明がほとんどウクライナ語かロシア語だったので、詳しくは内容がわからないんですが、今までに他の博物館や文献で見た内容から想像しながら理解したので、なかなか難しかったです。

いろんな博物館の展示物の説明を日本語で聞けるサービスとかあればいいのに・・・笑

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僕らが泊まっている宿から博物館に向かうには、バスを使うのが1番楽だったので、バス停に向かいました。

向かう途中にあった教会
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中もめちゃくちゃ綺麗だった
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バス停でバスを待っていると、幼い子供たちが軍服を着ているバスが目の前を走ってきた。
あんな小さな子供まで戦争に参加する可能性があるのか?と思うと悲しくなる。
アジア人が珍しいのか好奇の目を僕たちに向けていたので、子供たちに手を振ったら、無邪気に手を振り返してくれました。
あんな子供たちまで・・・という思いが強くなりました。

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これをきっかけにウクライナの軍の制度について調べてみたんですが、ウクライナは2013年まで徴兵制を行っていたのですが、情勢が平和になってきたので廃止したようです。
が、ロシアのクリミア半島への侵攻をきっかけに徴兵制を再開。その影響が僕たちの目の前を通った子供たちのようです。
せっかく徴兵制撤廃までいったのに・・・子供のために徴兵制撤廃に向かって活動した人の気持ちを考えると苦しくなります。
参照記事→Wikipedia

子供たちのバスが行ってから少しすると、僕らが乗る予定の24番のバスがやってきました。

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バスに揺られること20分ほどで大祖国博物館のある場所に到着しました。
ここにはいろんな教会が隣接されていました。

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教会を横眼に博物館の方へ向かって行くと、目の前に戦車が現れました。

戦車は完全に子供のおもちゃになっていた
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あゆみはトラックと記念撮影
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ベトナムの博物館で見た大砲を発見
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ウクライナもベトナムもソ連が味方していたので、武器が同じなのかもしれません。
大砲や戦車を見ながら歩いていくと、大きな像があって、そこが博物館のようでした。

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目印のめっちゃ大きい像
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博物館の前には第二次世界大戦を戦った兵隊さん(たぶん)の像がありました。

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博物館の前にも戦車が置かれていて、そこもしっかり子供たちの遊び場になっていました。

ウクライナの国旗の色をした戦車
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国旗の色の戦車が珍しかったので、乗って撮影しましたー

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あゆみは乗ろうとして滑り、諦めていました。笑
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さぁいよいよ博物館の中に向かいます。
入場料は学生証を使って5フリブナー(30円くらい)でした。安い!!
入ってすぐのとこには、戦争中に使われていた服が置かれていました。

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展示室を見ていくと、まず最初に第二次世界大戦のきっかけとなったナチスドイツのポーランド侵略が表現されていました。

ヒトラーの写真
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ヒムラーの写真
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おそらくヨーロッパを侵略するドイツを表したもの
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戦争で亡くなった人の写真
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戦争を戦っているところの壁画
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展示室を進んでいくと、アウシュヴィツ強制収容所の部屋がありました。
ウクライナのユダヤ人も収容されていたので、どこに行ったのかを表現したものでした。

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ユダヤ人のマーク
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アウシュヴィツ強制収容所にはもう行っていたので、その時のことを改めて思い出す機会になりました。
ちなみにアウシュヴィツ強制収容所に行った時の記事はこちら↓
アウシュヴィッツ強制収容所に行ってきた〜ナチスドイツが残したポーランドの負の遺産をこの目に〜【前編】
アウシュヴィッツ強制収容所に行ってきた〜ナチスドイツが残したポーランドの負の遺産をこの目に〜【後編】

その後の展示では、ソ連と共同戦線を組んでナチスに立ち向かい打ち勝ったことや、戦争中に物資をどのように戦場に送っていたかなどが表現されていました。

こんな子供も武器を持っている
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寝袋とパラシュートを使って支援物資を送っていたよう
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2階にも展示があって、そこにはナチスの旗や戦争を戦った時の壁がが置かれていました。

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銃で作られた十字架
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この博物館は・・・というより僕らが海外で見た歴史博物館は展示方法に工夫をしているところがとても多く、文章を読まないでも伝わってくるものが、その場の空気感の中にあります。
戦争の悲惨さを後世に伝えようとする姿勢がとても良いなと思いました。

戦争を戦った人の写真の展示方法
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アウシュヴィツの部屋には有刺鉄線が
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僕たちは大祖国博物館に、ウクライナから見た第二次世界大戦を見ようという目的で行ってきたのですが、実際に行ってみるとその目的以上に僕らを驚かせる展示がされていました。
それは特別展示物として置かれていた、クリミア半島での戦争を撮影した写真です。
2014年、2015年と年号が書かれているその写真には信じられない光景が描かれていました。
展示物の中から抜粋してここにアップします。

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戦争で戦っているところだけではなくこんな写真もありました。

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愛する人を戦場に送り出す女性。
戦場でペットボトルを持った子供。

この写真が2014~2015年に撮られたものだということが、僕たちにとって遠いものだと思っていた戦争をとても身近のものに感じさせ、今までとは少し違う感情を『戦争を二度と引き起こしてはいけない』という言葉に乗せることができるようにさせました。

僕たちがこの博物館を見学していた時に、地元の学生が社会科見学で博物館に来ていました。
この子たちも徴兵制によって訓練され、兵士として戦場に行く可能性があるんだ・・・と思うとなんとも言えない気持ちになります。
それに、生徒全員ではありませんが、展示物を見る子供の目や話を真剣に聞こうとする姿には必死さを感じました。

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僕たちが日本語で書かれた展示物を見ている時に、ある学生が『この展示物に何が書いているかわかりますか?』と質問してきました。

そこに描かれてた言葉はおよそこんな感じでした。

皇国万歳
至誠
会敵必殺


七世奉国

この言葉にはいろんな意味が込められているので、英語で伝えるのがとても難しかったのですが、2つ程伝えることができました。

そうすると、学生が『あなたは中国人ですか?』と聞いてきたので日本人であることを伝えると、急に大喜びしだし、『私日本のことが大好きです』と言ってきました。
そして、博物館を出たら一緒に写真を撮ってくださいと言ってきました。
僕らはもちろんOKして写真を撮りました。その時の写真がこれです。

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一緒に撮影したダナーやマキシムは日本がとても好きで、scandalという歌手が大好きらしいです。
すごくいい顔で、僕たちは将来絶対日本に行きたいと思っているんだと言ってくれました。

後日face bookを通して写真を交換すると、こんな風に編集して再度送り返してくれました。

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現在の日本が多くの国から好かれる国であることと、その大きなきっかけとなっている漫画文化・音楽文化に感謝です。

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アウシュヴィッツ強制収容所に行ってきた〜ナチスドイツが残したポーランドの負の遺産をこの目に〜【行き方・前情報編】

遂に行ってきました!!この旅で訪れたかった場所『アウシュヴィッツ収容所』!!つばさです。
ここでは過去の戦争の負の遺産をしっかりと見ることができます。

カンボジアのポルポト政権と並ぶ大虐殺の歴史である、ナチスがユダヤ人に行った非人道的な行為が1番激しかったと言われているこの場所に行けることに感謝です。

今回のこのブログはこれからアウシュヴィッツに行く方の参考になればと、中にあった展示には触れず行き方や注意点などを書きます。

アウシュヴィッツの記事は載せたい写真が多いので、行き方・アウシュヴィッツ・ビルケナウと3部に分けてお送りします。

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まずは、クラクフからアウシュヴィッツへの行き方や当日のスケジュールなど書きます。

【行き方とスケジュール】
クラクフにあるバスターミナルでチケットを購入します。
バスターミナルは【Kraków Główny】という駅に隣接していました。

バスターミナルはこんな感じ
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クラクフからアウシュヴィッツに行くバスはかなり本数が多く、当日バス停に行って買うこともできました。(僕らは前日にバスチケット購入しましたが)

クラクフからアウシュヴィッツへ行くバスの時刻表
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クラクフからアウシュヴィッツへはバスで1時間30分ほどで到着しました。

僕らが乗ったアウシュヴィッツ行きのバス
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当日はこんなスケジュールで動きました。

10:10 クラクフを出発
11:40 アウシュヴィッツ到着
12:00 アウシュヴィッツツアー開始
アウシュヴィッツ&ビルケナウ見学
15:30 ツアー終了&無料券入手
16:00 無料券を使って入場
16:30 クラクフ行きのバスに乗る
18:00 クラクフ到着

クラクフに戻るバスはこんな感じ
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時刻表があるとこに行って待っていればバスがきます
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【アウシュヴィッツの施設について】
アウシュヴィッツの中には2つの施設があります。
1.アウシュヴィッツ強制収容所
2.アウシュヴィッツ強制収容所 ビルケナウ

よく写真で見る施設はビルケナウでした
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観光する際は、この2つの施設に行く必要があります。
アウシュビッツ強制収容所からビルケナウまではバスで5分ほどで、15分に1本シャトルバスが出ています。(僕らはツアーでビルケナウに行ったので、ツアー以外での入場の際に無料で入場できるかはわかりません)

シャトルバス
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【アウシュヴィッツの入場について】
アウシュビッツに入るのは2パターンの方法があります。

1,ガイド付きの有料ツアーに参加する(40ズボティ(1400円くらい))
2,無料時間に無料券を発行して入る

無料券はこんな感じでした。(入場は16:00~でした)
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有料で入る場合も2パターンあります。

1,アウシュヴィッツの公式サイトでチケットを予約購入する
2,当日現地のチケットオフィスで購入する

現地のチケットオフィスはこんな感じ(入り口のすぐ近くにあるので、チケットが余っていればすぐに購入できます)
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予約購入の公式サイトはこちら

アウシュヴィッツの中には荷物のサイズ制限がありました。
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荷物を預ける場所は、アウシュヴィッツの近くにあります(3ズボティ(100円くらい))
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バックパックとかも預かってくれるようなので、アウシュヴィッツに荷物を全て持って行きそのまま次の場所に移動することもできそうでした。

ガイドはこのようなトランシーバーが付いてきて、これでガイドの声を聞きます。

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僕たちはしっかりと理解したかったので、日本語ガイドの中谷さんに予約を取ろうと思い1週間前に連絡を入れたのですが、予約することはできませんでした。
なので、英語ガイドのチケットを購入し、日本語のパンフレットを購入しました。(5ズボティ(180円くらい))

アウシュヴィッツ近くのショップに行くと買える
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結果的にこのパンフレットがあってめちゃくちゃ助かりました。
英語が少し不安って方は買うのをお勧めします!
あと、やっぱりガイドがいないと施設の周り方がわからないので、そんなに高いわけでもないので、ガイドをつけて施設を回ることをお勧めします。

以上アウシュヴィッツの行き方・前情報編でした!
アウシュヴィッツを見学した際の記事はこちら↓

アウシュヴィッツ強制収容所に行ってきた〜ナチスドイツが残したポーランドの負の遺産をこの目に〜【前編】
アウシュヴィッツ強制収容所に行ってきた〜ナチスドイツが残したポーランドの負の遺産をこの目に〜【後編】

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プノンペンのキリングフィールドに行ってきた〜重すぎる歴史をこの目に〜

スオスダイ!つばさです。
今日はプノンペンにあるキリングフィールド(チュンエク大量虐殺センター)に行ってきました。
カンボジアの重すぎる歴史。。。その歴史に触れてきました。

カンボジアにはベトナムとはまた違った歴史があって、その歴史をベースにして今のカンボジア人がいるんだな。と言うことを改めて考えさせられました。

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キリングフィールドへ私たちはトゥクトゥクを使って行きました。
交渉した結果、最初は15$と言っていた価格が9$に。
ツアーで行くと1人5$だったので、この金額なら納得できると決定。
朝10時過ぎに出発しました。

s乗る

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道が混んでいて到着したのは11時くらい。
早速キリングフィールドの中へ入って行きます。

s入り口

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まずは音声ガイダンス付き(日本語)のチケット(1人6$)を購入して入場。
日本語での音声ガイダンスがあることに驚きと感謝です。

sチケット購入

s他言語に対応

ガイダンスを聞きなが中へ進みます。

sイヤホン2

sイヤホン1

入ってすぐに見える慰安塔はガイダンスの1番最後だった。
s慰安塔最初

キリングフィールドの中には下記写真のような掲示板があって、その順路にそって進んで行き、そこでの出来事をガイダンスによって聞くというスタイルでした。

s掲示板

1〜19のガイダンスがあり、実際にキリングフィールドで働いていた方の証言や、トゥルースレン収容所の職員の証言ポルポト政権時代を生き延びた人の証言など、ここでしか聞けない話を直に聞くことができます。

このキリングフィールドに入ってまず驚いたのは、キリングフィールドは総称であり、正確にこの場所は『チュンエク大量虐殺センター』と呼ばれていたことでした。

この時、ベトナムのハノイで出会った女の子が『レボリューションミュージアムって何か凄さが伝わってこない。それは日本でレボリューションって言葉を簡単に使い過ぎているから。』と言っていたことをこの時に思い出しました。
それは、私が『キリングフィールド』と人伝いに聞いていた単語が、私の中でただの観光地としてのイメージを形成していて、『チュンエク大量虐殺センター』と言う凄く生々しい言葉をガイダンスで聞き一気にイメージが転換したからです。

キリングフィールドの慰安塔に保管されていた頭蓋骨
s頭蓋骨

キリングフィールド全体を周り、ここが大量虐殺が起こった場所とガイダンスで聞いてもなお、この全ての頭蓋骨が本当に1人1人が元々人間だったということを理解できませんでした。

ガイダンスの中にはいろんな話が盛り込まれていました。

ポルポト政権発足の経緯、ポルポト政権樹立後市民への影響、チュンエク大量虐殺センターがどのような運営をされていたのか、そして、その中で生き延びた人の経験談。

ガイダンスの中には、ポルポト政権(クメールルージュ)下の考えや、行った残虐な行動の数々が綴られていました。

【ポルポト政権下で兵士に共有していた言葉】

『罪のない人間を誤って殺すのは、敵を誤って殺し損ねるよりましである』

この言葉はポルポトの兵達達の中で言われていた言葉です。
ポルポト政権は1975年から1979年まで3年8ヶ月20日間続いたのですが、その中で、殺された人の数は30万人(諸説あるので、正確な数字ではないかもしれません)。その当時のカンボジアの人口は80万人だったので、人口の1/4がポルポト政権下に虐殺されました。

虐殺されたのは、政府に反対する可能性のある知識人達。

・学校の先生や医師、法律家等の専門家
・外国語が話せた人
・メガネをかけた人
・柔らかな手をした人
・僧侶や尼

など多くの人が虐殺されました。
政権発足当時は、この知識人達に『その能力を活かした仕事があるので、集合して欲しい』と通達を出し、集めて虐殺したようです。
その行動の根底には知識を持った人(罪のない人)を殺すのは、知識を持った人(知識を持った人の中にいるかもしれない敵)を殺しそこねるよりましである。ということです。

大量虐殺された人を埋めていた穴があった場所。周りを覆う木には多くのミサンガが祈祷の意味で結ばれていた
s死体を入れる穴最初

『雑草を取り除くなら根こそぎ』

ポルポト政権下では多くの人がチュンエク大量虐殺センターで虐殺されました。
虐殺される前、ほとんどの人はトゥルースレン収容所という所に収容されていました。
そこでは、収容者に対する拷問が行われ、謂れのない罪の証言をすることを強制されていました。
供述の中にはこのようなものがあったようです。

・求められた仕事を行わなかった
・人民共有の米を盗んだ
・秩序に従わなかった
・アメリカ、ロシアのスパイである

この供述を引き出す為に、数日・数週間・数ヶ月の拷問が行われました。
そして、この供述の中には拷問されている本人が罪を犯すだけではなく、自分の家族や友人、仕事仲間も同じ罪を犯したと書かれていました。
このように行ったのは、政権によって殺された人による復習を未然に防ぐという目的があったからです。
つまり、収容所に連れてこられた人(雑草)を殺すならその周りの人(雑草)も同時に殺してしまわなければならない。ということです。

当時チュンエク大量虐殺センターで虐殺された人たちの服。中には女性のものや子どものものもあった。
s当時の人が着ていた服

s無造作に置かれた服

市民だけではなく、ポルポト政権の兵士達も殺されていた。
政権を少しでも批判した者は首を切って殺され、見せしめにされていた。

166人の首のない遺体が埋められていた場所
s兵士が殺された

【ポルポト政権について】

ポルポト政権下では、都市に住む人のことを新市民。農村部に住む人を旧市民と呼んでいました。この2つの市民の中でポルポト政権が重要視したのは旧市民です。
ポルポト政権は狂信的な共産主義思想を基に樹立していて、『土の上で働く人』が権利を持つ自給自足の社会を目指しており、ポルポト政権下の兵士を旧市民の中から集めました。

この当時のカンボジアはベトナム戦争の影響で、地方にアメリカの空爆が落ちて来る等の影響により、汚職と食料不足により極度の貧困に襲われていました。
その為、アメリカからの空爆を逃れるために市内に非難した人たち(旧市民)も市内に住んでいたのですが、ポルポトが1975年4月17日の時点で市内に居た人は全て新市民とみなされ、強制労働所へ連れて行かれました。

旧市民にポルポト政権が伝えたことは1つ。

『新市民は利己的で悪である。人々の苦しみは都市部の新市民のせいである。そして、新市民は寄生植物戦敗者の捕虜である。』

農村部に住んでいる人のほとんどは、教育を受けていない人で、現代社会に対する知識がなかった為、判断基準もなく、この言葉を信じポルポト政権の兵隊になりました。

こうして、カンボジア人がカンボジア人を殺す国家が誕生しました。

sカンボジア人がカンボジア人を

【トゥルースレン収容所とチュンエク大量虐殺センターについて】

虐殺された多くの人はまずトゥルースレン収容所に連れて行かれました。
そこで、拷問を行った上でチュンエク大量虐殺センターに運ばれたのです。
移動する際に、収容所の看守からは『新しく住む家が見つかったから移動する』と伝えられていたようです。

sトゥルースレン収容所から運ばれる

移動する際は、目隠しに後ろ手を縛られていて、脱走しないように厳重な監視体制を敷いていたようです。

s駐車場

sトラック駐車場

トラックでの輸送は夜に行われました。
なぜなら、周りの住人にこの場所で虐殺を行っていると気づかれないようにする為です。
そして、毎晩『マジックツリー』といわれる木につけたスピーカーからポップな音楽を鳴らし何事もなかったかのように見せていました。その音楽で死に際の最後の断末魔の叫びすらかき消していたのです。
ガイダンスの中にその音楽を再現した物があるのですが、なんとも不気味な音楽でした。

マジックツリーのとこのガイダンスで『菩提樹と言われる釈迦が悟りを開いた木なのですが、そのような幸運なことはここでは起きませんでした。』と言う言葉があり心苦しくなった。
sマジックツリー

到着後1人1人穴の前に呼ばれて、名簿に照らし合わせ確認し虐殺。
到着したその日に殺されず、チュンエク大量虐殺センターの部屋で1夜を過ごす人も居たようです。
その中には自分の処刑実行書類にサインさせられた人もいました。
その時のその人のことを考えると胸が締め付けられます。

s殺害現場

ポルポト政権はお金がなかったので、人を虐殺する為に銃は使いませんでした。理由は、弾が高過ぎたからです。
虐殺する際に使われたのは、鍬や鎌などの農具。本来は鶏を殺す時に使う木の幹などです。
1度切り裂いただけでは死なないので何度も何度切ったり刺したりしていたかと思うと言葉がありません。

実際に使われた道具
s実際に使われた道具

s首を切った木

チュンエク大量虐殺センターには多くの穴が今でも残っています。
そして、この穴全てに人が大量に埋められていたのです。
チュンエク大量虐殺センターでは2万人の人が無惨にも殺されてしまいました。

s墓穴

s墓穴2

チュンエク大量虐殺センターを発見した当時はこのような様子だったようです。
実際に発見した人の言葉に『酷く臭い匂いがしたので、そこを覗いてみるとそこには多くの人間の死体があった』とありました。

s発見当初のキリングフィールド

s当初の写真

目隠しをされたまま殺された人の遺骨
s目隠しをされたまま殺されたト

現在も土の中から多くの骨や歯、衣服が見つかっているようです。

見つかった遺骨
s遺骨はこの中

s遺骨

見つかった歯
s歯

【キリングツリー】

チュンエク大量虐殺センターにはキリングツリーと呼ばれる木があります。
この木がキリングツリーと呼ばれるには理由があります。
その理由は、この人を打ち付けて殺したという事実です。

sキリングツリー

キリングツリーの横にも穴があり、ここには女、子どもが埋められていたようです。

s女子供の死体置き場

ここでころされた女性はほとんどが若い女性だったようです。
カンボジアの女性は元来控えめで、お風呂に入る時や海に入る時も衣服を着用しています。
が、その習慣を知っているはずのポルポト政権下のカンボジア人兵士に殺害される時に、女性は衣服を全て剥ぎ取られ、恥ずかしめを受けた上で虐殺されたようです。
そして、子ども(乳幼児)がいる母親の前で、子ども(乳幼児)の両足を持ち先程のキリングツリーに子どもの頭をぶつけ殺害して穴に落としてから、母親を殺すという残虐な行為まで行っていました。
目の前で子どもを木にぶつけられて殺される母親の気持ちは、はたしてどんなものなのか。。。想像がつきません。

sキリングツリーと穴

キリングツリーを最初に見つけた人は、『なぜこの木の幹に血痕や髪の毛、脳みそが付着しているのか不信に思った。でも、その横にある穴を覗いてみるとその理由が全てわかった』と証言しています。

【慰安塔について】

チュンエク大量虐殺センターには、ここで亡くなった全ての人に祈りを捧げる慰安塔があります。
慰安塔の中には、ここで亡くなった人の頭蓋骨が多数保管されてます。
そして、慰安塔の中に入って近くで見ることが出来ます。
冒頭でも書きましたが、この全ての頭蓋骨が模型ではなく生きていた人間のものだと私は実感することができませんでした。
こんなに多くの人がこんなに無惨に殺害されるなんて、戦後平和になった日本で育った私には考えられないからです。
しかも、この行動はたった40年前の出来事だと言うことに驚きを隠せませんでした。

s慰安塔

s慰安塔の中にある頭蓋骨

慰安塔内にあった日本からの千羽鶴
s千羽鶴

【キリングフィールドに行ってみて】

キリングフィールドに実際行ってみて、私はとても陰鬱な気持ちになりました。
実際に行かないと伝わりづらい、現地で感じる穴からの匂い独特な空気。そして、所々に置かれた虐殺された方の遺骨
全てが私の気持ちを暗く、そして重くさせました。
中でもキリングツリーは壮絶で、まだ産まれたばかりの子どもを木に打ち付けて殺害する様子。それを間近で見せられる母親。泣け叫ぶ母親と子どもの様子、その行動を行う兵士の顔、心情を想像すると・・・

兵士達の証言の中で、『革命の反逆者にされて殺されるから。言われた通りのことをするしかなかった』と言うものがありました。
仮に兵士達も言われたからやるしかなかった。という状況だとすると、母親、子ども、兵士全ての人が悲しい想いをここで体験したのです。
その後、生き残った兵士はどのような人生を送っているのか?この事を考えるだけでも悲痛な気持ちになります。

ポルポトは、1940年代にフランスへ無線電子工学を学びに留学しました。
フランスで共産党に入党し、中国の毛沢東を崇拝しました。
カンボジアに戻ってからは、教師として働き、教師を集めて革命軍を作り、ポルポト政権を作り上げました。
ポルポト政権を作った後、今後反乱する可能性があるからと称して、一緒に革命を行った教師達や自分の家族、兄弟を虐殺しました。
そして、ポルポト政権が指揮を執る民主カンプチア国を作りました。

私はこの経歴を見て、ベトナムのホーチミンのことを思い出しました。
共にフランスの植民地だったカンボジアとベトナム。
その後国を変えた人物(ポルポトとホーチミン)がフランスに留学し共産党に入党。
ポルポトは中国ホーチミンはロシアをベースにした共産党の考え方を自国に持ち帰り革命を行った。

その後、ホーチミンはフランスの植民地支配から独立を果たし、南北に分断され、それでも仲間とともに闘い抜いて、強敵アメリカに勝って、現在のベトナム社会主義共和国を樹立した。

これに対し、ポルポトはプノンペンを占領し、民主カンプチア国を樹立。一緒に革命を行った同志を殺害し、多くの市民を虐殺。カンボジア人がカンボジア人を殺すという内部に敵を作り出してしまった。その後ベトナム軍に攻め込まれタイとの国境までポルポトは敗走し、民主カンプチア国は崩壊。

経歴の上では同じような人生を歩んできたはずなのに、考え方1つで大きく変わった2つの人生と大きな影響を受けた多くの国民。

私は、ポルポトが猜疑心満載の秘密主義人を信じられなかったことに問題があるのではないか?と思いました。
そして、そんな1人の人間が上に立ったことによって、30万人もの命が失われてしまったことに驚くと同時に、このような事を2度と繰り返してはいけないと強く感じました。

最後に、ポルポト政権を生きた人の証言にあった言葉でキリングフィールドでの体験についてまとめたいと思います。
『大量虐殺が行われた国はカンボジアだけではない。ロシアやドイツでも行われている。しかし、カンボジアで大量虐殺が行われたことが現在のカンボジアに大きな影響を与えている。この悲劇2度と起こさないように次の世代にきちんと伝えていくことが、この博物館と体験した我々の使命だ』

回っている途中大雨が。泣いているようだった。
s突然の雨

結局、チュンエク大量虐殺センターに4時間程滞在していて、トゥクトゥクの運ちゃんには申し訳ないことをした。
『4時間も中にいるなんて長過ぎるよ〜』と何度も言われた。

キリングフィールドを出るとこの近くに住む子ども達がいた。少し癒された気持ちになった。

s学校終わりの子ども

s子ども

そして、無事ホテルに送ってもらって運ちゃんと一緒に写真撮影。

s運ちゃんと共に1

s運ちゃんと共に2

帰ってきてから少し宿で休んで、晩ご飯を食べに屋台へ。
1プレート7000リエルのヌードルを食べました。

s晩ご飯

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それから、昨日見つけた1杯0.5$のビールを飲みにバーへ。
私たちがこの旅で行った店で1番オシャレといっても良いぐらいオシャレなお店でした。

sオシャレなバー

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バナナのおつまみが無料で付いてきました。

s無料おつまみ?

ビールを飲んでいると現地民がダーツを初めて、見ていると『勝負しないか?』と声を掛けてきました。

s声を掛けてくる

負けたら腕立て伏せ20回を賭けて勝負開始!

sダーツ対決

結局2回勝負し見事2連勝!
お兄さんは腕立て伏せを40回してました。

s負けて腕立て伏せ

かなり濃い1日が過ぎていきました。
明日はトゥルースレン博物館に行ってきます。

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クチトンネルは総合エンターテイメント施設だった(笑)

シンチャオーあゆみです。
今日は歩き過ぎてつかれたー!!クチトンネルの広さに驚き、そして隅から隅まで歩いたので足が棒のようです。
ビールで癒されます!!w

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朝8時に起きたら、ホスト先の皆さんは誰もいませんでしたw
みんなお仕事に行ってるみたい。お母さんは朝6時から仕事だって言ってるし、こっちの人は朝がホンマ早い・・・

さぁ、今日はクチトンネルへ行きます。
クチトンネルとは、全長200kmの地下トンネルネットワークで、ベトナム戦争中に、南ベトナム解放民族戦線によってゲリラ戦の根拠地として作られ、ここよりカンボジアとの国境付近までトンネルが張り巡らされていた、というものらしいです。
歴史好きのうちらには見ときたい遺跡なのです!!

バイクの喧噪に負けそうになりながら・・・
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途中で笑顔が素敵なお母さんからバインミーを買って・・・
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バスターミナルに到着です!!
クチへは、ベンタイン市場の前のバス乗り場じゃなくて、バスターミナルで乗ります。
バス停の場所は、赤いドロップピンのとこ★

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13番のバスに乗って出発です!!料金は7000ドン。
バスの中でバインミー!

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シーチキンのような味のするパデと、卵、キュウリとネギと醤油の絶妙なバランス!!バインミーはベトナムのどこで食べるかにもよって全然違うけど、どこも美味しい!!
ハノイとか北の方ではバインミーは最後に焼くけど、こっちでは焼かないみたい。

2時間程乗ったら、クチのバスターミナルに到着。てか、2時間も乗って7000ドンってめちゃ安いなw

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ここで、79番のバスに乗り換えます。料金は6000ドン。

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運転手さんと車掌さんに、「クチトンネルに行きたい!!」とめいいっぱいアピール(笑)

途中、おばあちゃんちを思い出す、めっちゃ田舎道を通り過ぎて・・

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すると、1時間弱で、運転手さんに「クチトンネル!」と言われ、降ろされます。クチトンネルの入り口に到着みたいです。
片道3時間弱・・・なかなか長かった・・・。
でもクチトンネルツアーで行くと、最低でも往復80000ドンはかかるから、片道13000ドンは破格の値段ですな♪

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あ!ありました。門らしき物が!!

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で、中に入ると、ん!?テニスコート!??

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他にもレストランとかあったし、ここはクチトンネルオンリーではないのか!?ってかめっちゃ広そうな気配が・・・
てくてく歩いて行くと、2、3分でチケット売り場があったので、買いました。

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何故か70000ドンと20000ドンのチケットを2枚買わされました。

そして、てくてくてくてく・・・ただひたすら歩きます。
10分程歩いたら、でっかいお寺みたいなのが!!

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中にはホーチミンさんと、鶴と亀がおりました!THEベトナムStyle(笑)

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もう、ホーチミンさんゴリ押しですなw
そんなホーチミンさんにチューをしてw
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”有名な塔”と、パンフレットに記されている塔の前で記念撮影。
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ここ実は博物館らしいのだけど、廃れ過ぎててなにも展示してませんでしたw
けど、博物館の周りの彫刻画(?)はとても面白かった!!
ベトナムの歴史が時計回りに記されているのです。

李王朝の時代から・・・
明に勝ったベトナムの人たち。
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ベトナム戦争で虐げたれ・・・
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立ち上がったベトナムの人たち。
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一生懸命戦い、
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最後はベトナムが一つにまとまった!!
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ベトナムの歴史が、分かるようになっているのです。
ハノイでベトナム史を学んだからこそ、この壁画の意味が分かって面白かった!
そのようすはこちら→ハノイで絶対行った方が良いと思う場所
やっぱり、どこかの国に行く時は、その国の歴史背景を知っておくと、観光するにも何倍も面白くなるんだなーって思いました!!

そして!!またここからてくてくと10分程歩いたら、銃とか展示されている重々しい建物が・・・。

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ここで実弾射撃ができるのかな?と思っていたら・・・
「ヘーイ!!」って呼ばれました。

実はここ、今回のメインイベント、クチトンネル探検の入り口だったみたいです!!

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ここで、90000ドン分のチケットをもぎ取られ

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いよいよです!!

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まずは、まっすぐ進んで、「ここで自由にクチ戦士たちと記念撮影していいよ」と言われ、記念撮影w

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そしてまっすぐ進むと、ビデオブースがありました。
ここで、クチの人たちがいかにしてアメリカ軍と戦ったか、という映像を見ました。

いやー、クチの人ほんま凄いです。そもそも、クチトンネルを全長200kmにわたって作ったことも凄いし、自分たちがアメリカ人よりも体が小さいことを活かした作戦がすごい。

実は、このなにもないように見えるところに・・・

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地下に通づる穴があって!!

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穴を小さめに作って、それを見つけたアメリカ兵が穴に入る時にあくせくしている間に殺せるようにしてたりとか。

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実際のトンネル内部は、めっちゃ狭く、ベトナム人が凄い小柄だったことが分かります。

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本当に薄暗くて狭くて怖い・・・。これをアメリカ軍の攻撃のさなかに移動したり、戦ってたのかと思うとホンマに凄いです。
そして、そのトンネルを怖がるつばさがいます。
チキンなつばさ再びwどうぞww

そして、救護施設や、実際にどういう風に戦傷者を運んでいたのか模型もありました。
リアル過ぎて、「うぁ!!」ってなりましたがw

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あと、クチの人たちが仕掛けたトラップもありました。

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これマジで刺さったら痛そう・・・これに刺さるぐらいなら撃たれた方がマシかもって感じですよね・・・。

最後に、クチの人たちが食べていた、タピオカを実際に体験しました。
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うん、なんか蒸したいもみたいな感じで、めっちゃ腹にたまってすぐにエネルギーに変わりそうなことだけは分かりました。だから、アメリカに勝ったんだねw

これにてツアーは終了。

たぶん旅行会社のクチトンネルツアーで来てたら、ここで終わりなんだろうけど、自力で来たうちらは、このアミューズメントパークを最大限に楽しもうと、他のゾーンも見に行くとこにしましたw

京都みたいなとても綺麗な竹林の道をとおりぬけ・・・

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まず、当時のクチ村の様子を表したゾーン。

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基本的に家は半地下になってて、どの家もクチトンネルに通じるようになってました。すげぇな。

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そして、このゾーンを過ぎると、池みたいなのがあってその周りには、ハノイにある一柱寺の10分の9のモニュメント(もうちょっと頑張って等身大にしたら良かったのにw)とか

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うちらが行った、フエに王宮のミニチュア!

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チケットとをもぎ取られた入り口もこんなに小さい!

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等身大だったらできないことをやってみた★w

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柱の模様とか、内部の様子とか、はたまた池の汚さとかもめっちゃリアルに再現されてますw

最後にはホーチミンにあるホーチミン博物館のミニチュア。
中もしっかりホーチミンさんの展示がされててびっくりしましたw

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で、ここまで来て、つばさがあることに気づきます。
「これ、ベトナムの形してない?この池が海でさ」
写真 (14)

確かに!!

ていうことは、このホーチミン博物館の南にある川のようなものは、メコンデルタ!?たしかに、3つに川が別れていました!!

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すげー、よく考えられてるなー!!と二人で感動しておりました。が、なんせ廃れているアミューズメントパーク、うちら以外にここを歩いているのはだーれもいませんでした・・。

そして、歩いて行くと、実弾射撃ができるゾーンに突入。

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これが値段表です。
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一発100円からとだいぶリーズナブル。
つばさが「安いの一発やりたい!!」って言ってたんだけど、1発だけじゃ打てなくて、最低10発からってことだったので、もういいか!って帰りました。

帰り、79番のバスを待つもなかなか来ず、そして雨もぱらついてきたので焦っていたら、謎の片足サンダルのおっちゃん登場。
「どこにいきたいんだ」みたいな会話から、「クチバスターミナル」と言ったら、おっちゃん、必死で丁寧に教えてくれました。
最初は変な人来たー!!って焦ってましたが、最終的には人懐っこいめっちゃいいおっちゃんでした。

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バスに乗ってから、「あのおっちゃん、クチの戦士だったのかもしれないね」っていう話になりました。年齢的にも、ちょっと英語分かる(アメリカ軍の教育)感じからしても、もしかしたらって。
いうても、ベトナム戦争はまだ40年弱前のできごと。その辺で物を売ってるおっちゃん、おばちゃんも苦労したんだろうな、って思うとなんだかやるせない、というか変な気持ちになります。自分が平和ぼけしてるだけに・・・。

また3時間弱かけて帰って来たら、もう晩ご飯の時間でした。

今日もカウチサーフィンでお世話になっているホストのおかあさんにごちそうになっちゃいました。

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今日は魚料理がメインで、私の好きな辛いソースがついてたので、「I like spicy!!」って言ったら、めっちゃついでくれました。
おとうさん、私の辛いの食べっぷりにビックリしてましたが(笑)

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ほんと、ベトナム料理はおいしい!!日本食より好きかも←w
今日もご飯たらふく食べちゃいました。

そして夜は、10000ドンのサイゴンビール大瓶をたらふく飲み、

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家に帰っても、ベトナムのとんがりコーンとビールを飲みながら夜はふけていくのでした・・・。

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ホーチミンにある戦争証跡博物館へ行ってきた。

シンチャオ!!つばさです!!
2日間の夜行バスを乗り越えて、ホーチミンに到着♪

シンカフェのバスは空いている時期なら1番後ろがかなり良いことが判明しました!
5席が連なっている席があって、空いてたら全部仕えちゃいます♪

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運が良ければこんな感じで横向きに寝れちゃいます♪
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ベトナム縦断最後の都市に到着です♪

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ホーチミンではカウチサーフィンを使おう♪と僕達の中で決めてて、2人のホストが泊めてくれることになりました♪
今日は1人目サムエルの家へ向かいます!

サムエルに教えてもらったローカルバスのバス停へ移動♪

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88番のバス停へ向かいます♪英語で数字を言って伝わらない時は、電卓に打つとスムーズに伝わることがわかりました♪
ちなみに、バスチケットはこんな感じ!

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そして、43番のバスに乗り換え!

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バスの切符売りに『ミンマンホテル』に行きたいって言ったんですが・・・伝わらずw

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近くにいたお姉さんが『連れてってあげるよ!!』と男前発言♪

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優しいお姉さんのおかげで、サムエルとの合流場所んび到着しました♪
サムエルの家はめっちゃでかい!!そして、部屋がとても綺麗です♪

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昨日の夜から何も食べてなくて、空腹の僕らをサムエルがローカルフードマーケットへ♪

激ウマの麺
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アイスコーヒー
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ここで、サムエルの家に昨日から泊まっているセルと合流♪

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セルはロシア人で大のバスケット好き♪ソチオリンピックの時にトンネルを作るエンジニアをしてて、ソチに行く為のトンネルは僕が作ったと言ってました!
現在は退職して、アジアを中心にグルグル旅をしているようです♪
セルの旅スタイルはヒッチハイク&カウチサーフィンです♪凄いなーと思いつつ、僕らもヒッチハイク試してみようか検討中ですw

今日は、セルもホーチミン市内に行くということなので3人で観光してきました♪
まず、さっきのバスでホーチミン市内へ移動♪
ホーチミンはバイクの数が凄いです。

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いろんなツアー会社に聞いたんですが、クチトンネルツアー(ベトナム戦争時にベトナム軍が使っていたトンネル)は安くて9万ドンくらい掛かって、しかも入場料(3$)は自己負担。

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なので、僕らはローカルバスで行くことを考えてます♪
サムエルに『クチトンネル』に行くローカルバスのバス停を聞いていたので移動!

セルと英語で話しながら移動・・・英語難しい
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で、料金を聞いた所このローカルバスは1人7000ドンで行けちゃうみたいです♪
かなりお得だったので、ローカルバスで行くことを決定!!
天気予報を見て天気がいい日に行ってきます♪

それから、近くにあった教会へ♪観光スタートです!

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セルフィーが大活躍です♪
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キリストが磔られているとこの前に線香・・・これが和洋折衷でしょうかw
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教会を見たあと公園を通って、戦争証跡博物館へ

公園で学生のような子達がなんかやってたw
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カメラを構えるとみんな笑顔でピース♪前に出てきた男の子が邪魔してますw
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戦争証跡博物館に着いたのですが、お昼休みみたいで入れず・・・近くの観光スポットへ行くことにしました!

統一会堂の庭にあった戦車を見てセルが『あれはロシア製の戦車だ!』って言ってた。
日本人が零戦を見て『あっ!?』って思うようにロシア人もそう感じるんだ!と思った。

統一会堂にあった戦車
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それから、聖マリア教会へ移動!

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セルに2人の写真を撮ってもらいました♪
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セルとの3ショット♪
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マリア様の写真
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僕が写真撮影をしている間にセルとあゆみが2人で遠くへ

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かなり置いてかれましたw
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それから、セルが『郵便局に行きたい』と言っていたので、隣の中央郵便局へ
僕らは郵便局に入る前に、地元の学生のアンケートに捕まりましたw

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英語がわからない僕達にいろいろ別の言い方で教えてくれました♪
そして、書き終わった後にセルフィーw

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アンケートを通して、地元の学生と交流するのも新鮮で楽しかった♪
それから郵便局の中へ♪めっちゃ綺麗!!そして、ホーチミンさんが愛されていることがわかりました!

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郵便局の隣にあるモニュメントを発見!

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すぐに同じポーズw

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こうやって遊んでると戦争証跡博物館に入れる時間になってきたので、移動♪

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チケットは1人1.5万ドンでした!!安い!!

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博物館の周りには当時使われていた、アメリカ産の飛行機や戦車が

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博物館に入る前にセルフィーw

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博物館に入るまではかなりのハイテンションだったんですが、中で見たベトナム戦争当時の写真や、枯れ葉剤の影響を見ると、凄く切ない気持ちになりました。

ベトナムに着いてから僕らがベトナム戦争に関する博物館に来るのは、今回が3度目です。
1度目はハノイで、2度目はフエで。ちなみにその時のブログはコチラ↓
ベトナム歴史博物館はベトナム史の宝箱だった
南北ベトナムの境界線に行ってきた

ある程度歴史の流れも、その当時の写真も見てきてて。
その当時に、市民が暮らしていたトンネルにも行ってきて。
ベトナム戦争についてわかった気でいたけど、実際の被害を考えた時に、この博物館程、戦争の被害が生々しく伝わる写真を多く掲載している場所はなかったように思う。

この戦争が後世にどれだけの精神的・肉体的影響を与えてきたのか?が明確に感じられた。

まずは、ベトナム戦争時の様子についての写真。

アメリカ兵が急に家にやってきて怯えるベトナム人の写真
アメリカ兵がやってきて恐れる親子

爆撃で殺したベトナム人を持つアメリカ兵士
死体を持つアメリカ兵

当時使っていた銃と、その銃を使ってベトナム軍の兵士を殺している様子
銃とアメリカ兵乱暴

前日まで夫婦で一緒に屋台をやっていたのに、進撃してきたアメリカ兵に妻を殺された男性(妻は男性の前で横たわっている)
s妻を殺された

アメリカ兵士から逃げるベトナムの子ども達
逃げる子ども

アメリカ撤退後、ベトナム人同士が争い合う様子を捉えた写真
sベトナム対ベトナム

最後にこの写真が僕にとってとても心に残った。。。

戦争を知ってしまった子ども大人になると忘れてる

この写真の下にはこのように書かれていた。

『僕達は子どもの時に、子どもの立場で戦争の話をした』
『子どもの立場で戦争を理解した』
『子どもの立場で戦争について考えた』
『でも、大人になった時、子どもの時の記憶をなくしてしまった』

ベトナム戦争が行われている時代の日本人の贈り物も飾ってあった。

アメリカはベトナムから手を引けと書かれたゼッケン
ゼッケン

金子徳好さんが8年間つけ続けたようで、『ゼッケン8年』という本になっている。
sゼッケン8年

アメリカが手強いベトナム軍に対して原子力爆弾の投入を検討していた時、投下に反対し阻止しようとする日本人のポスター
アメリカの原子力泊める

ベトナム人民は必ず勝つ!と書かれたポスター
ベトナム勝利

自衛隊に沖縄をアメリカから取り戻せ!と言っている写真
沖縄

日本の新聞会社の『赤旗新聞』
赤旗新聞

この当時の日本は、東京裁判史観によって変更された教育を受けた人より、大東亜戦争時代アメリカに勝とうとしていた人が多い時代で、発言の勇ましさに、僕は日本の力強さを感じた。

そして、米軍の枯れ葉剤散布による被害についての写真。
僕は子どもの頃、日本でベトちゃん・ドクちゃんのニュースを見たことがあって衝撃を覚えたのを今でも覚えている。

産まれた当初のベトちゃん・ドクちゃんの写真
sベトチャンドクちゃん

米軍の枯れ葉剤散布の写真
sIMGP3961

枯れ葉剤の影響により人体に変化が生じた子
sIMGP3918

sIMGP3969

sIMGP3963

12歳の時に枯れ葉剤を被ってしまった女性の子どもが奇形児に。
s枯れ葉剤浴びる12歳

何年経っても受け継がれる枯れ葉剤の影響
s枯れ葉剤浴びた母親の子

枯れ葉剤の影響により草木がなくなってしまった場所に立つ女性
s枯れ葉剤

枯れ葉剤によって、お腹の中でくっついたまま亡くなった子ども達
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枯れ葉剤の影響で腕を失った子が足で絵を描く様子
sIMGP3975

枯れ葉剤の影響はベトナム人のみでなく、現地で散布したアメリカ人兵士や現地で戦っていた韓国人など多くの人間に拡がっていた。

戦場時から戻ったあと20種類の薬を服用しなければならなかった兵士
sアメリカ兵薬

この兵士の子どもにはベトナムで起きた枯れ葉剤が子どもに与える症状を発祥した。

腕を失った白人の子ども
s枯れ葉剤影響白人

枯れ葉剤の影響が出た様々な国の人
s韓国・アメリカ生涯

枯れ葉剤を使うことで、人体にどのような影響が出るかわかっていた。(実際アメリカの会社は影響が出ることを認め、アメリカ人には補償を与えている)
それなのに、兵器として実験感覚で使ってしまったことが大きな罪だと思う。
戦争は、確か国際法とかで市民への攻撃は禁止にされていたはずなのに、多くの市民を殺す兵器を使っている。
兵器を使って、多くの市民を虐殺し、生活を打ち壊し、多くの悲しみを生み出し、後世に影響を与える損害を引き起こした。

僕はこの博物館に来て、2つのことを考えた。

1つ目は、障害を持つ人へ『可哀想』という感情を持つことに関して。
枯れ葉剤によって障害を持って産まれた子どもの写真や大人の写真をたくさん見た。
1枚1枚に対して、何度も何度も『可哀想だ』という感情が心の中で産まれた。
でも、この障害を持った人を『可哀想』と思うことは、その人がこれまで生きてきた人生やこれからの人生に、哀れみの目を向け否定してしまっているのでは?と考えるようになった。
どんな状態からでも、人生を楽しむ方法はあって、恐らく楽しむ為に越えなければならないハードルが少し多いだけだと考えようと思った。

だから、可哀想だから支援したり、助けるのではなく、ハードルを乗り越えるのに自分の持っている物が役立てられるから手伝う。そんな気持ちで自分自身生きていきたいと思った。

2つ目は戦争に関して。
今まで戦争で亡くなった人写真などを見て、悲しい気持ちになったり、できることなら助けてやりたいと思っていたけど、この博物館にきて自分の考えはそうではないことに気がついた。
僕は戦争で戦って亡くなった人に関しては、あまり悲しい気持ちにはならない。
戦争を行うということは、そういうことで。
殺されるけど殺している。
拷問されるけど拷問している。
お互いの理念に沿ってしっかり戦っているから、その戦争でどうなってもそれはその人の選択によって産まれた結果なんだと思う。
でも、戦争に巻き込まれた一般市民、戦争の影響が将来まで拡がるような兵器の仕様。この2点に関してはどうしても許せないと思う。
街に対する空爆。村への奇襲による虐殺。勘違いによって射殺される人々。人体の構造にまで影響を与える兵器の使用。
全ての行動が『非人道的』行動だと思う。

戦っているはいえ、絶対に一般の人のは影響を与えないようにする配慮を持つべきだと思う。
過去の経験を変えることはできないから、これから最悪のケース(戦争が起こる)を考えた上で、一般人を巻き込まない方法や、人体の構造にまで影響を与える兵器(枯れ葉剤・原子力爆弾など)を使用するルールをしっかりと定めるべきだと思う。

即興の案としては、

・攻撃してはいけない場所を戦線布告の際に作る
・インターネットの機能を使って戦時中は市民がどこにいるかわかるようにする
・上記のスペースや情報を使った戦略の組み立ては禁止する

など、一定のルールを盛り込んだ新たな戦時法を生み出すべきだと思う。

最後にいろんな考えを産んだり、過去の経験をしっかり振り返られる現状を作ってくれた人に感謝したいと思う。
今まではあまり気づかなかったけど、写真を撮るということは、現場に行って従軍カメラマンとして危険を顧みず、撮影を行った多くの人たちがいたわけだ。

写真を提供したカメラマンの写真
s写真家

今までは誰が撮影したのかわからないままだったので、気づかなかったがこの写真の裏側には、多くの人が命を掛けて仕事をしていた。
中には亡くなってしまった人もいるだろうし、この体験がトラウマになってしまうこともあるだろうと思う。
この人たちの努力が、現在を生きる僕達が過去を振り返り、過去の体験をこの目に焼き付ける機会を与えてくれていることに感謝です。

ホーチミン1日目は本当に濃い1日になりました。

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ベトナム戦争の軍事境界線(DMZ)を体験してきた

シンチャオ、あゆみです。
今日は、ベトナム戦争についてお勉強モードです。

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あさ、本当は朝ご飯は7時からなのに、うちらのためにわざわざ朝ご飯を作ってくれたオーナーさん。
ホンマ良いホテルです。

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美味しいベトナムコーヒーを堪能して、7時前にお迎えがきました★

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2時間程バスに乗ると、ドンハの街へ到着。
ここで、ベトナム人のガイドさんが乗り込んで、ベトナム戦争についていろいろ説明してくれました。

ベトナム戦争ってざっくり言うと、アメリカ、フランス率いる南ベトナムと、旧ソ連、中国率いる北ベトナムが戦った、冷戦の代理戦争ともいわれるもの。
で、うちらが今回参加したツアーっていうのが、ベトナム戦争が始まる前、1954年のジュネーブ協定で決まった、第一次インドシナ戦争の停戦ライン付近をめぐる、というものなのです。ベトナム戦争は、この軍事境界線をはさんでとても激しく行われました。

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実はこのガイドさん、おじいさんは南ベトナム軍の兵士、おばあさんは北ベトナムの人、というとても複雑な背景の人。
この人が、「戦争はよくない。」と言うと、説得力があります。

午前中は、軍事境界線より南側の国道9号線沿いを巡ります。この国道、そのまま進み続けたらラオスに抜けます。

バスが走ること30分、最初のみどころ、「ロックパイル」に到着です。

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この岩は、高さ230mほどで、アメリカ軍の補給基地に使われていました。空から、フィリピンから運んできた物資をとどけていたとか。

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たしかに、周りは低く、見晴らしはいいです。
トップをよく見ると、旗がたなびいてます。(今日は風向きの関係上旗が良く見えないw)
昔は、アメリカの国旗だったけど、今はベトナムの国旗がたなびいてるようです。

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道の途中、この辺にすんでるローカルの人々の家を見学しました。

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ほんの40年前はここもこんなのどかじゃなかったんだろうなぁ・・・

そして、また15分程進むと、ダクロン橋に到着です。
これは北ベトナム軍が、南ベトナムに架けた、軍事補給路。「ホーチミンルート」と呼ばれてます。

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ホーチミンルートのモニュメント。

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またここからラオス側に進むこと15分。ついに、ケサン基地に到着です。
ケサン基地とは、米軍が、さっきのホーチミンルートを破壊する目的のために作った基地です。脅威に思った北ベトナム軍がケサン基地破壊のために頑張って周りを包囲し、孤立したケサン基地は空路での補給のみを余儀無くされますが、せこいアメリカは空から北ベトナム軍を攻撃することで盛り返します。だけど、結局は維持にコストがかかりすぎるから撤退したという、なんともまぁ無駄な基地なのです(笑)

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山の上にあって、周りはほんとに見晴らしがいいです。

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エアフォースが置いてました。

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めっちゃ大きい!

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昔使われていた戦車には、皮肉にも花が咲いていました。

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ラピュタやん(笑)

塹壕が迷路みたいでした。

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いや、ホンマようこんなん作りますな…

塹壕の中からせルフィー(笑)

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塹壕の中は真っ暗で怖かったです。
あと、なんか兵士たちの死気みたいなものが残ってそうで、気持ちが重くなりました…

ここで、いらんって言うてるのに、やたらコインを売ってくるおじちゃんがいました。しかもそのコイン、大日本帝国のコインとか、なかなかレアなものが多くて買わんけど、見入ってしまいます。

見学のあとは、ドンハの街に戻ってお昼ごはん。
昼ごはん絶対観光地価格やろうと思ったら、思ったとおりでした(笑)

うちらは、高い昼ごはんを食べる欧米人をよそに、持参した3800ドン(20円)のパンをもそもそ食べましたw

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この大きさで20円は安すぎ!!

午後は、北に上がり、軍事境界線(DMZ)となったベンハイ川にいよいよ向かいます!

途中、ベトナム戦争で犠牲になった兵士たちのお墓を訪れました。

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そして、いよいよです!
川の南北2kmは、非武装緩衝地帯。
この門が目印です!

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これがベンハイ川!
そして、かかっている橋が、ヒエンルオン橋です。

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水色側が北ベトナム、黄色側が南ベトナムです。

たった40年前、この橋を渡ろうと思っても渡れなかったんですね。この辺に住んでいた人たちは本当大変だったに違いない…
うちらは、この橋の横の大きな橋をいとも簡単にわたって、北ベトナムに入りますw

川のサイドは公園になってました。

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このまま北に上がること20分。
ビンモックトンネルに到着。

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ビンモックトンネルとは、DMZ付近のビンモック村に住んでいた住民がアメリカ軍の爆弾から逃れるために作った地下の街です。
400人ぐらい住んでいて、中には病院、学校もあり、地下で17人の子どもが産まれたそうです。

6年間という長い年月、ずっと地下で暮らすなんて精神的にも相当しんどかったやろう…外は爆撃まみれやし、戦争はいつ終わるか分からんし…。
爆弾は、2100トン落ちてきたらしいです。想像をつきまへん…

これ、落ちてきた爆弾跡。

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めちゃでかくてびっくりした!

まず、資料館へ。
入り口にかけられてる彫刻がまた印象的。

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中には、使われてた銃が。

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そして、実際に生活してる様子の写真が。

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これが、地下で産まれた子供たち。

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産まれてからずっと太陽の明かりを知らないってどうゆうことって感じです・・・

実際にトンネルの中に入ります。

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狭いしとても暗い…

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砲撃で崩れないように、だいぶ地下に潜ります。地下3階ぐらいらしい!

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こんな狭いスペースに一家族が暮らしていました。

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マタニティールーム。

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ミーティングルーム。

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ここだけは、高さが高く、腰を屈めなくても歩けました。

ずんずん進んでいくと・・・
このトンネルは、海へと繋がっていました。

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海で魚とか獲って暮らしてたんでしょうか…。

たった15分ほど、通り抜けするだけでも息がつまりそうでした。
ここに6年…凄いって言葉で片付けるのも申し訳ないぐらい凄いです。

また、違う穴から帰っていきます。

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これが実際のトンネル内の様子です。

出た先は、入り口とはまた違う所で、驚きました!
これは案内がないと迷うなぁ・・・。

ビンモックトンネルを案内してくれたお兄ちゃんと。

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これにて、ツアーは終了です。

なかなかおもしろいツアーでした。
ベトナム戦争の遺跡にふれ、そのことで自ら学びたいと思い、調べ、知ること。普段日本で過ごしていたらベトナム戦争について考えないけど、考えるいいきっかけになりました。

夜は、うちらのアンコールツリースクールのボランティアのブログを見てくれて、連絡してくれた、小林さんとごはんに行きました。

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お互いはじめまして、だけど、向こうからしたら、いつもブログで見てる人が生でいる!ってなったらしいですw

いつもの居酒屋で。
また、ベトナム語メニューを見ながらテキトーに頼み(笑)

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そしたら、ポテトが出てきてびっくりしましたがw
二日前に頼んで美味しかったお魚と

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20000ドンとは思えない大量の野菜炒め。

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そして、牛肉!!これもヒットでした★

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小林さんも世界一周で、フィリピン入りでオーストラリア、バリ、タイ、カンボジアと回ってるみたいです。
もう6ヶ月回ってるけどなかなか前に進まない、と。いや、うちらもですwアジア居心地良すぎ!

閉店間際に、小林さんが昨日ツアーで出会った女の子も合流。

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タカナシさんは、アジアをぐるっと回ってるみたいです。
タカナシさんに一目惚れの店員w

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明日はホイアンに移動なので、最後にお別れの挨拶をしました!

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店主のおっちゃん。おもろいけど、写真撮られるの緊張するみたいw
みんな英語通じないけど、笑顔は通じるね!

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ホンマ楽しかったぜ、フエ!また来るよ!

本日もご愛読ありがとうございました。
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